崔宏1  冀州神童

崔宏さいこう、字は玄伯げんはく清河せいが東武城ひがしぶじょうの人だ。名が孝文帝こうぶんてい元宏げんこうと被っているため、魏書では字で呼ばれている。曹魏そうぎの司空、崔林さいりんの六代くだった子孫である。

祖父は崔悅さいえつ石虎せきこに仕え、司徒左長史、關內侯となった。父は崔潛さいせん慕容暐ぼよういに仕え、黃門侍郎となった。どちらもその高い学識をもって讃えられている。

崔宏自身もまた幼い頃より儁才と讃えられ、冀州きしゅう神童と呼ばれていた。


苻堅ふけんの末弟である苻融ふゆうが冀州を統治するとき、崔宏に礼を尽くした。陽平公ようへいこう侍郎、すなわち苻融の近侍に任じられ、冀州從事を兼任し、征東将軍府の書記官となった。外に出れば諸事を総督し、内では苻融の話し相手となり、その業務処理に滞りは一切なかった。


苻堅は崔宏の評判を聞いて感心し、自身のもとに呼び寄せて太子舍人に任じようとしたが、崔宏は母の病を理由に辞退。このため著作佐郎に左遷された。

冀州の責任者が苻融から苻丕ふひに替わると、崔宏は征東功曹に任じられた。


太原たいげん人の郝軒かくけんは代々著名人を輩出する家柄であった。そんな郝軒は崔宏に「近世にかつてないほどの王佐の才がある」と称えていた。


苻堅が滅ぶと、青州に疎開。しかしその地には翟釗てきしょう東晋とうしんを裏切り自立した張願ちょうがんがおり、崔宏は張願に抑留された。

この事態を聞き、郝軒が嘆じる。

「なぜ彼にかくなる事態が起こるのだ、旋風に乗らねばオウムも雀も飛び立てぬと言うに、なんと惜しきことか!」


やがて慕容垂ぼようすいに取り立てられ、吏部郎、尚書左丞、高陽こうよう內史に任じられた。各職務にて讃えられ、その立ち振る舞いは折り目正しく、他者と群れることもなく、乱世のただ中にあっても志を立てて学問に励んだ。いわゆる蓄財に興味がなく、妻子は飢えや寒さを耐え忍んだ。




崔玄伯,清河東武城人也,名犯高祖廟諱,魏司空林六世孫也。祖悅,仕石虎,官至司徒左長史、關內侯。父潛,仕慕容暐,為黃門侍郎,並有才學之稱。玄伯少有儁才,號曰冀州神童。

苻融牧冀州,虛心禮敬,拜陽平公侍郎,領冀州從事,管征東記室。出總庶事,入為賓友,眾務修理,處斷無滯。苻堅聞而奇之,徵為太子舍人,辭以母疾不就,左遷著作佐郎。苻丕牧冀州,為征東功曹。太原郝軒,世名知人,稱玄伯有王佐之才,近代所未有也。堅亡,避難於齊魯之間,為丁零翟釗及司馬昌明叛將張願所留縶。郝軒歎曰:「斯人而遇斯時,不因扶搖之勢,而與鷃雀飛沉,豈不惜哉!」慕容垂以為吏部郎、尚書左丞、高陽內史。所歷著稱,立身雅正,與世不羣,雖在兵亂,猶勵志篤學,不以資產為意,妻子不免飢寒。


(魏書24-9)




カッコいいんですけど、妻子を飢え凍えさせる野郎のどこがイケてるの? とも思えて仕方がなくてな。いや食わせようよ最低限。どうもこれを凄いことかのように語る中国史筆法がなかなかキツイ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る