許謙2  高陽文公

参合陂さんごうはの敗北に怒った慕容垂ぼようすいは、今度は自ら軍を率い進軍してきた。拓跋珪たくばつけい許謙きょけんに言う。

「この火急の事態、そなたでなくば後秦こうしん軍を招致なぞできまい。行ってきてくれ」

しかし許謙の出立直前に、もう慕容垂軍は撤退した。出立は中止となった。慕容垂の訃報が届くと、許謙は拓跋珪に皇帝と名乗るよう勧めた。拓跋珪はその推挙をよしとした。

并州へいしゅうを支配する慕容農をはじめとした慕容氏一門を追い払うと、許謙は陽曲ようきょく護軍となり、平舒へいじょ侯に封じられ、安遠將軍に任じられた。

396 年に死亡した。63 歳だった。平東將軍、左光祿大夫、幽州ゆうしゅう刺史、高陽こうよう公が追贈され、文と諡された。


子の許洛陽きょらくようが家督を継承した。慕容寶ぼようほう討伐に従軍し、冠軍将軍王建おうけんの司馬となった。後に令となった。拓跋嗣が許謙の功績をたたえ、許洛陽を雁門かんもん太守とした。おりしも許洛陽の家の田に三本、瑞祥である嘉禾かか(通常よりも多く実がついた穀物の穂)が生じる。どの田にある嘉禾も見事に一つの茎に二つの穂を実らせており、拓跋燾はこれを祝福した。北地ほくち公に進爵し、鎮南將軍を加えられた。明壘めいるい鎮を守備するようになり、八年の任期ののち、現地で死亡した。恭と諡された。




明年,慕容垂復來寇。太祖謂謙曰:「今事急矣,非卿豈能復致姚師,卿其行也。」謙未發而垂退,乃止。及聞垂死,謙上書勸進。太祖善之。

并州平,以謙為陽曲護軍,賜爵平舒侯、安遠將軍。皇始元年卒官,時年六十三。贈平東將軍、左光祿大夫、幽州刺史、高陽公,諡曰文。

子洛陽,襲。從征慕容寶,為冠軍司馬。後為祁令。太宗追錄謙功,以洛陽為雁門太守。洛陽家田三生嘉禾,皆異壟合穎,世祖善之。進爵北地公,加鎮南將軍。出為明壘鎮將,居八年,卒。諡曰恭。


(魏書24-4)




許謙さんがすごかったから子も讃えられた、といった感じですね。この辺はなんだろうなぁ、拓跋氏が漢人の風習を取り入れて政を進めていた裏打ちなのかな、と言う気もします。つまり「親の功績により子が讃えられる」という形ね。いや同じようなの拓跋にもありそうですが。

それにしても許謙さんの信頼されっぷりがやべえ。

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