道武子4 皇子たち

ここからは拓跋嗣たくばつし拓跋紹たくばつしょう以外の息子たちである。


拓跋熙たくばつき。403 年に王に封じられた。聡明であり、節度有る振る舞いを心がけていた。このため宗族よりも重んじられた。拓跋珪が旧慕容の土地にて練兵をなすと、拓跋熙に十二軍の統率を任じ、見事に成し遂げる。拓跋珪は喜び、多くの恩賞を与えた。その後西方討伐に多くの功を挙げた。421 年に死亡、23 歳だった。拓跋嗣は大いに悲しみ、葬礼には皇帝クラスの祭具を多く備えさせた。


拓跋曜たくばつよう、403 年に王に封じられた。5 歳のときに拓跋珪の前で雀に矢を当て、拓跋珪は驚き、感嘆した。成長するとその武技は他者を遥かに上回り、兄の拓跋熙らとともに練兵の指揮をとり、兵たちはその勇敢さに感服した。421 年に死亡、22 歳だった。子が七人いた。


拓跋脩たくばつしゅう、407年に王に封じられた。415 年に死亡、子はいなかった。


拓跋處文たくばつしょぶん、407 年に王に封じられた。幼い頃より聡明であったが、409 年に 14 歳で死亡した。拓跋嗣はその死を大いに悼み、通夜から葬儀に至るまで、常にそばにあり慟哭した。拓跋珪の眠る金陵きんりょうに倍葬された。子がなく、王位は廃された。


拓跋連たくばつれん、407 年に王に封じられた。427 年に死亡、子はなかった。


拓跋黎たくばつれい、407 年に王に封じられた。428 年に死亡した。




陽平王熙,天興六年封。聰達有雅操,為宗屬所欽重。太宗治兵於東部,詔熙督十二軍校閱,甚得軍儀,太宗嘉之,賞賜隆厚。後討西部越勤,有功。泰常六年薨,時年二十三。太宗哀慟不已,賜溫明祕器,禮物備焉。

河南王曜,天興六年封。五歲,嘗射雀於太祖前,中之,太祖驚歎焉。及長,武藝絕人,與陽平王熙等並督諸軍講武,眾咸服其勇。泰常七年薨,時年二十二。有七子。

河間王脩,天賜四年封。泰常元年薨,無子。

長樂王處文,天賜四年封。聰辯夙成。年十四,泰常元年薨,太宗悼傷之,自小斂至葬,常親臨哀慟。陪葬金陵。無子,爵除。

廣平王連,天賜四年封。始光四年薨,無子。

京兆王黎,天賜四年封,神䴥元年薨。


(魏書16-4)




拓跋珪の息子たちも、国史の難がなかったらもう少し伝記が残っていたんでしょうけどね。まぁ、残ってないのは大勢にかかわらなかったってことでもあるので、仕方ないのかな。

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