道武妃  神像鋳造

拓跋珪たくばつけいの妃で名前が挙がるのは二名だ。ひとりはりゅう氏、ひとりは慕容ぼよう氏である。


劉氏は匈奴きょうど独孤どっこ部、劉庫仁りゅうこじんの弟である劉眷りゅうけんの娘だ。拓跋珪が独孤部内で拓跋部大人となると妃としてめあわされた。華陰かいん公主(のちに閭大肥りょだいひに嫁ぐ)と拓跋嗣たくばつしを産んだ。妃は内向き仕事に専心し、特に寵愛を受けたのだが、拓跋氏に伝わる金の神人像をうまく鋳ることができなかったため妃には選ばれなかった。

北魏ほくぎでは古くより妃の産んだ子が後継者となった際にはその母をみな殺すことになっていた。拓跋珪の晩年、このしきたりが執行され、劉氏は殺害された。拓跋嗣が即位すると拓跋珪の霊廟に合祀された。以後後継者の母は殺されこそするものの、先代帝と合祀することが習わしとなった。


拓跋珪の正妃となったのは慕容氏、慕容宝ぼようほうの末娘である。拓跋珪が中山ちゅうざんを陥落させたときに彼女を獲得、妃として引き込んだ。拓跋儀たくばつぎらが皇后に立てるべく奏上。そこで慕容氏に金の神人像を鋳させたところ、鋳造に成功。こうして皇后となった。慕容氏の母であるもう氏を漂陽君とした。のちに死亡した。




道武皇后慕容氏,寶之季女也。中山平,入充掖庭,得幸。左丞相衞王儀等奏請立皇后,帝從羣臣議,令后鑄金人,成,乃立之,告於郊廟。封后母孟為漂陽君。後崩。

道武宣穆皇后劉氏,劉眷女也。登國初,納為夫人,生華陰公主,後生太宗。后專理內事,寵待有加,以鑄金人不成,故不得登后位。魏故事,後宮產子將為儲貳,其母皆賜死。太祖末年,后以舊法薨。太宗即位,追尊諡號,配饗太廟。自此後宮人為帝母,皆正位配饗焉。


(魏書13-3)




「劉氏が正妃ではないから」という理由で慕容氏のあとになるのはまぁわからないでもないんですが、後世の人間的にはものすげーわかりづれーのでやめてくださいそーゆーの。

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