賀太后2 烈女

拓跋珪たくばつけいがなんとか賀蘭部がらんぶにまで逃げ延びると、部民たちは拓跋珪に対し、むしろ警戒していた。それに気付いた賀氏のいとこ、賀悅がえつは敢えて部民を率い拓跋珪に忠誠を誓う儀式を行った。


賀蘭部のこの動きに怒った劉顕りゅうけん氏を殺そうと目論んだ。しかし、賀氏は劉亢泥りゅうこうでいのもとに逃げ込み、祭祀のための車の中に三日間隠れ住んだ。そして劉亢泥は家族を挙げて賀氏の助命を嘆願、ついに許された。その後独孤どっこ部で内乱が発生。これに乗じ賀氏は脱出、ついに賀蘭部への帰還を果たす。


後に賀氏の弟の賀染干がせんかんが拓跋珪に人心が集まっているのを憎み、挙兵し宮殿を囲んだ。すると宮殿からはただひとり、賀氏が姿を現す。そして弟に対し、言う。


「貴様らは何を思ってわらわをここに置いたのじゃ? そうか、わらわに我が子を殺してほしいとでも思ったのかえ?」


そのあまりの威圧感に、賀染干はすごすごと引き下がるしかなかった。


賀氏は拓跋寔たくばつしょく死亡後に拓跋翰たくばつかんの妻となり、拓跋觚たくばつこを産んでいる。北魏と後燕の外交を交わすに当たり、拓跋觚は人質として後燕に勾留された。賀氏は拓跋觚が敵国に拘留されたことを憂い、まもなく死んだ。396 年、時に 46 歳であった。拓跋珪は盛楽せいらくの金陵に、賀氏を北魏の創建者として追尊した。




太祖得至賀蘭部,羣情未甚歸附,后從弟外朝大人悅,舉部隨從,供奉盡禮。顯怒,將害后,后夜奔亢埿家,匿神車中三日,亢埿舉室請救,乃得免。會劉顯部亂,始得亡歸。後后弟染干忌太祖之得人心,舉兵圍逼行宮,后出謂染干曰:「汝等今安所置我,而欲殺吾子也?」染干慚而去。後后少子秦王觚使于燕,慕容垂止之。后以觚不返,憂念寢疾,皇始元年崩,時年四十六,祔葬于盛樂金陵。後追加尊諡,配饗焉。


(魏書13-2)




賀氏がどこまでも烈女すぎわろた。

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