拓跋嗣25 虎牢攻撃

423 年、拓跋嗣たくばつしぎょうに移動。民の様子を視察した。奚斤けいきん兗州えんしゅう豫州よしゅうを平らげた上で改めて虎牢ころうを包囲。しかし毛徳祖もうとくその守りは引き続き固い。

河東かとう薛定せつてい薛輔せつほが五千世帯あまりを引き連れ帰属してきた。


柔然じゅうぜんが国境を襲撃した。2 月、長川ちょうせんの南、東は赤城せきじょうより西は五原ごげんに至るまで、全長 800 km にも及ぶ長城が築かれた。更に守備隊が配された。


3 月、拓跋嗣たくばつしは鄴の南の韓陵山かんりょうざんで狩猟儀礼を行い、きゅう郡を経て枋頭ほうとうに出た。そして靈昌津れいしょうしんより黄河こうがを南に渡り陳留ちんりゅうとう郡に出た。そして再び黄河を北に渡って西に向かい、河內かだいへ。浮橋を冶坂津やはんしんに作った。




八年正月丙辰,行幸鄴,存恤民俗。司空奚斤既平兗豫,還圍虎牢,劉義符守將毛德祖距守不下。河東蜀薛定、薛輔率五千餘家內屬。蠕蠕犯塞。二月戊辰,築長城於長川之南,起自赤城,西至五原,延袤二千餘里,備置戍衞。三月乙巳,帝田於鄴南韓陵山,幸汲郡,至于枋頭。乙卯,濟自靈昌津,幸陳留、東郡。乙丑,濟河而北,西之河內,造浮橋於冶坂津。


※資治通鑑掲載分

1 月、于栗磾うりつてい洛陽らくようを陥落させた。守っていた王涓之おうけんしは逃亡した。叔孫建しゅくそんけん臨淄りんし入りした。竺夔じくき東陽とうよう城を固守、入りきれない民は山野に逃げさせ、また穀物類は刈り取った。軍は食料の接収が叶わなくなった。濟南さいなんを守る垣苗えんびょうが竺夔に合流した。

司馬休之しばきゅうしらと共に東晋とうしんより北魏に亡命した刁雍ちょうようが拓跋嗣に見え叔孫建の援護につきたいと申し出をしてきた。許可した。元々の青州方面軍は六万騎であったが、刁雍は五千人を獲得し合流。また途中の民を慰撫して回ったため、食料の献上も得た。

3 月、奚斤や公孫表こうそんひょうの虎牢攻めを拓跋嗣も援助したが、毛德祖はあの手この手で撃退する。そこで奚斤は步騎三千を分け許昌きょしょうを守る李元德りげんとくを攻撃、逃走させた。庚龍ゆりゅうに許昌を守らせた。対する毛徳祖は離間の計を仕掛け、公孫表を誣告させ、処刑させることに成功した。

そうでは戦場にほど近いこうじょう城より諸軍を引き上げさせるべきと言う建議が上がったが、劉粋りゅうすいが項城確保を主張した。また許昌より逃げ延びた李元德軍を回収、その敗軍の責めを負わせないよう請願、受理された。

叔孫建による東陽攻撃はあわや陥落、というところにまで迫る。檀道濟だんどうさい王懿おういが急ぎの救援軍を派遣した。

娥清がせい周幾しゅうき閭大肥りょだいひらが湖陸こりく高平こうへいを攻撃。高平の民衆は抵抗虚しく殲滅された。一万もの人間が捕虜として捕らえられた。兗州えんしゅう刺史の鄭順之ていじゅんしは兵力の少なさを理由に、湖陸の城内より敢えて出撃しなかった。

拓跋嗣は虎牢攻めの増援として伊樓拔いろうばつを派遣。しかしなおも毛徳祖は頑強な抵抗を示した。この頃にもなると、魏軍の士気にも陰りが見え始めた。


(魏書3-25)




相変わらずとんでもなく輝く毛徳祖の武威。それにしてもこの頃の虎牢、完全に包囲されちゃってるんですよね。それこそ南から劉粋、南東から王懿檀道済が救援に向かわないとなすすべなし。ほんに、改めて読むと凄まじいですわこのひと。

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