拓跋嗣18 南侵準備

418 年、拓跋嗣たくばつしは自ら軍を率いて長川ちょうせんより出撃。薛繁せつはん高車こうしゃ丁零ていれいの十二部族の長を率いさせ北方に向け略奪をなし、弱水じゃくすいまで至ったところで二千人あまりの投降者、牛馬二万頭あまりを得た。河東胡かとうこ蜀人しょくじん五千世帯あまりが帰順してきた。

3 月、東晋とうしんよりの使者があった。范陽はんようの洪水被害が年間を通し著しかったため、租稅を返却した。


4月、ていゆう三州の民を平城へいじょうに移した。

5 月、叔孫建しゅくそんけん廣阿こうあを守らせた。長孫道生ちょうそんどうせい奚観けいかんに二万騎を与え北燕ほくえん馮跋ふうばつを攻撃させた。また延普えんふにも幽州から遼西りょうせいに攻め上らせて援護させた。拓跋嗣は突門嶺とつもんれいに陣を構え、戦況を見守った。長孫道生は龍城りゅうじょうで民一万世帯を獲得、帰還した。


7 月、拓跋嗣は平城に戻った。

8 月,雁門かんもん河內かだいで大雨洪水があったため、租稅を返却した。

9 月、諸州より租税を徴収。一戸あたり五十石である。これらをていしょう三州に集めた。つまり、南侵の準備だ。


10 月、西苑せいえんに宮殿を建てた。


この年、司馬徳宗しばとくそうが死亡。弟の司馬徳文しばとくぶんが即位した。赫連勃勃かくれんぼつぼつが皇帝を自称した。




三年春正月丁酉朔,帝自長川詔護高車中郎將薛繁率高車丁零十二部大人眾北略,至弱水,降者二千餘人,獲牛馬二萬餘頭。河東胡、蜀五千餘家相率內屬。三月,司馬德宗遣使來貢。庚戌,幸西宮。以范陽去年水,復其租稅。

夏四月己巳,徙冀、定、幽三州徒何於京師。五月丙午,詔叔孫建鎮廣阿。壬子,車駕東巡,至于濡源及甘松。遣征東將軍長孫道生、給事黃門侍郎奚觀率精騎二萬襲馮跋,又命驍騎將軍延普自幽州北趨遼西為聲勢,帝自突門嶺待之。道生至龍城,徙其民萬餘家而還。六月乙酉,車駕西返。

秋七月戊午,至於京師。八月,雁門、河內大雨水,復其租稅。九月甲寅,詔諸州調民租,戶五十石,積於定、相、冀三州。

冬十月戊辰,築宮於西苑。

是歲,司馬德宗卒,弟德文僭位。赫連屈丐僭稱皇帝。


※資治通鑑掲載分

北魏侵攻の前、北燕の都、和龍かりゅうでは赤氣によって四方が覆われ、陽の光すら隠された。占術者の張穆ちょうぼくが「これは兵氣です。今、魏が強勢となり、こちらより送った使者を捕らえ、通好を拒否しました。恐るべきことが起こる気がしてなりません」と語ると、馮跋ふうばつも「おれもそう思っていたところだ」と答えた。

そして、北魏の侵攻開始。拓跋嗣や長孫道生、奚觀のほか李先りせんも参加しており、延普軍には尉諾うつだくも参加していた。対する北燕軍の将軍は右輔古泥うほこでい皇甫軌こうほき。この戦いで皇甫軌が戦死する。馮跋は城の守りを固めた。攻め落とすことが適わないと見てとった北魏軍は略奪の上撤収した。

崔宏さいこうの病が篤くなった。いまだ北燕戦からの帰途にあった拓跋嗣は崔宏のもとに、一晩に何度も容態を確認する使者を飛ばした。死亡すると、その葬儀には国の重鎮らを参列させた。


(魏書3-18)



積於定、相、冀三州。

この記述を見る感じだと、ある程度周りを叩いて抵抗できなくしてから、満を持してこっちの領土を勝手にズカズカ通過した東晋に対するけじめ付けに向かおうとしたのかもしれないですね。南侵の理由は「非礼」でしたが、考えてみりゃ領土侵犯ってめっちゃ喧嘩売ってますわ。それでもなお劉裕存命中は動けなかったあたり、どんだけ劉裕がやばかったのかって感じですね。


……ん、定州?

中山ちゅうざん常山じょうざん鉅鹿きょろく博陵はくりょう北平ほくへい? あれ、ぎょうより北じゃん。まぁいっか。冀州相州は国境ラインだし。




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