拓跋嗣16 為卻月陣

417 年 2 月、拓跋嗣たくばつしは詔を下す。

平城へいじょうから遠い地方の暮らしには、どうしても政務に滞りが出てしまいがちである。しかも、中央より派遣した統治官のもとにもその事態が報告されぬ例も多いよう思われる。いま、渤海ぼっかい沿岸域の開発を進めるにあたり、困窮のあまり農務を継続できぬものも多くいるようである。ここに改めて各地に監察官を遣わせる。そしてかの者らに民情を把握させ、統治官の把握が行き届くよう図らせる。無論このようなことを自ら訴えるのが難しいものもおろう。郷里のものとも協力し合い、実態を把握できるよう努めよ」

東晋とうしん将の傅洪ふこう叔孫建しゅくそんけんのもとに使者を遣わせた。虎牢関ころうかんを差し出し投降するので、我々を守ってほしい、と願い出てきたのだ。また司馬休之しばきゅうしの息子、司馬文思しばぶんし王良おうりょうを拓跋嗣のもとに遣わせ上書、軍を発し劉裕りゅうゆうを討って欲しいと願い出る。そこで長孫嵩ちょうそんこうに軍を持たせて劉裕の迎撃に向かわせた。畔城はんじょうでの戦いとなり、勝ったり負けたりとなった。拓跋嗣はどうにかして劉裕軍を止めるよう命じたが、止まらなかった。


4 月、丁零ていれい翟蜀てきしょくが部民を率い劉裕に接触した。北燕ほくえん馮跋ふうばつもまた王特兒おうとくじらを派遣し東晋に接触しようと試みる。こちらは章武しょうぶにて捕獲に成功、平城に送致した。


5 月、汝南じょなん胡譁こからが一万世帯あまりを率いて帰順してきた。東晋の齊郡せいぐん太守である王懿おういが投降してきた。




二年春二月丙午,詔曰:「九州之民,隔遠京邑,時有壅滯,守宰至不以聞。今東作方興,或有貧窮失農務者。其遣使者巡行天下,省諸州,觀民風俗,問民疾苦,察守宰治行。諸有不能自申,皆因以聞。」辛酉,司馬德宗滎陽守將傅洪,遣使詣叔孫建,請以虎牢降,求軍赴接;德宗譙王司馬文思遣使王良詣闕上書,請軍討劉裕。詔司徒長孫嵩率諸軍邀擊劉裕,戰於畔城,更有負捷。帝詔止諸軍,不克。

夏四月丁未,榆山丁零翟蜀率營部遣使通劉裕。馮跋使人王特兒等通於司馬德宗,章武太守捕特兒等,囚送京師。丁巳,幸高柳。壬戌,車駕還宮。五月,汝南民胡譁等萬餘家相率內屬。乙未,司馬德宗齊郡太守王懿來降。車駕西巡,至于雲中,遂濟河,田于大漠。



※資治通鑑掲載分

4 月、拓跋嗣らと黄河こうがを挟んで並走する劉裕は、近衛隊長の丁旿ていごに工兵七百、車百台を与え黄河を渡らせ、半月型の陣敷かせた。百台の車にはそれぞれ大型の弩が備えられていた。陣の周りは朱超石しゅちょうせきが守備している。何が起こっているかわからなかった北魏ほくぎ軍は陣を包囲。たちまち弩が射出され、一つの矢、というよりも槍は、一射にて軽く三、四人を撃ち貫いた。この事態に北魏軍は潰走、阿薄干あはくかんをはじめとした多数の死者を出し、畔城に逃げ延びた。朱超石はそこに胡藩こはん劉榮祖りゅうえいそを率いて追撃。更に被害を拡大させた。劉裕迎撃については崔浩さいこうが反対していたのだが、畔城の被害を聞き、拓跋嗣は崔浩の言を採用しなかったことを後悔した。

5 月に王懿が投降してきたときには「劉裕が洛陽らくよう入りしたところで兵を発し、退路を断ってしまえばよいのです。そうすれば戦わずして勝利できましょう」と語った。拓跋嗣はその策を承認した。


(魏書3-16)




んー、「勝ったり負けたり」とはまた雅やかな表現でございますね。確かに「畔城の戦いの後でなら」朱超石軍を追い払ったりしてますものね。嘘は言ってない。嘘は。


それにしてもここで言う王懿は、劉裕宿将の王懿ということでいいのかなあ。王懿伝は欠落が多いせいでよくわからないんですよね。

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