拓跋嗣15 劉裕侵秦
416 年 3 月、
4 月、大赦し改元した。
9 月、
10 月、
11 月、
12 月、
この年、
泰常元年春正月甲申,行幸犲山宮。戊子,車駕還宮。三月己丑,長樂王處文薨。常山民霍季,自言名載圖讖,持一黑石以為天賜玉印,誑惑聚黨,入山為盜。州郡捕斬之。
夏四月壬子,大赦,改元。庚申,河間王脩薨。六月丁巳,車駕北巡。
秋七月甲申,帝自白鹿陂西行,大獮于牛川,登釜山,臨殷繁水而南,觀于九十九泉。戊戌,車駕還宮。九月戊午,前并州刺史叔孫建等大破山胡。劉虎渡河東走,至陳留,為從人所殺,司馬順宰等皆死。司馬德宗相劉裕,泝河伐姚泓,遣其部將王仲德為前鋒,從陸道至梁城。兗州刺史尉建畏懦,棄州北渡,王仲德遂入滑臺。詔將軍叔孫建等渡河,耀威滑臺,斬尉建於城下。
冬十月壬戌,幸犲山宮。徒何部落庫傉官斌先降,後復叛歸馮跋。驍騎將軍延普渡濡水討擊,大破之,斬斌及馮跋幽州刺史、漁陽公庫傉官昌,征北將軍、關內侯庫傉官提等首,生擒庫傉官女生,縛送京師。幽州平。十一月甲戌,車駕還宮,築蓬臺於北苑。十二月,南陽王良薨。
是歲,姚興卒,子泓立。
※資治通鑑掲載分
8 月、公孫表は劉虎らの内部分裂が著しいと見て取り、特に後秦軍との連携も取ろうとせずに攻撃。惨敗した。このため拓跋嗣は臣下に問うている。
「劉虎らの謀反が年をまたいでなお収まらぬ。その勢力も増しており、いよいよ被害は深刻となっている。とはいえこの収穫期真っ盛りのときに兵を発すれば、民の農務に遅れが出よう。さて、いかがしたものか」
「反乱軍は数こそ多いですが、まともな統率者もおりません。このため大いなる患いとまではならないでしょう。公孫表らは確かに破れましたが、それは兵力の問題ではなく、統率力の問題と思われます。このため威望を備えた勇將に数百騎を率いさせて公孫表の軍を引き締めれば、勝てぬことなぞありません。これについては
こうして叔孫建が遣わされたわけである。
この年、
「夫とその栄光を共にしたのであれば、死後も仕えるべきではないか?」
このため桓氏は首をくくって死んだ。
(魏書3-15)
ちらちらえげつない。とはいえ公孫表の戦い方はあくまで軽騎をぶん回す戦い方で、歩兵メインの軍とかって苦手だったんじゃないかしら。拓跋嗣も「ここで兵を動員すると農民の仕事を遅らせることになる」と言ってるし。そして叔孫建はもともと并州とかで歩兵の扱いにも慣れていたんじゃないかしら。
そして拓跋嗣……拓跋嗣さぁああん! あんたなんちゅうエピソード残してはるんや……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます