拓跋嗣2  拓跋紹討伐

409 年 10 月,拓跋紹たくばつしょうが反逆し、拓跋珪たくばつけいを殺害した。拓跋嗣たくばつしはすぐさま宮殿入りし、拓跋紹を誅殺。そして帝位に就き、大赦し、永興と改元する。生母のりゅう氏を宣穆せんぼく皇后と諡した。拓跋珪の乱行を恐れて自宅に避難していた公卿大臣をことごとく招集、再び登用した。中でも長孫嵩ちょうそんすう安同あんどうはよく民からの訴訟ごとを処理し、賢人を任用、拓跋珪末期に生じた政の乱れを整え直した。


翌、閏月。拓跋悅たくばつえつが謀反を図ったため誅殺した。また奚斤けいきんに領内を巡察させ、民の苦しみを聞いて回り、また慰撫させた。


12 月、拓跋儀たくばつぎの子、拓跋良たくばつりょう南陽なんよう王に、拓跋烈たくばつれつ陰平いんへい王に、拓跋樂真たくばつがくしん平陽へいよう王に封じた。拓跋嗣は西宮を拠点とし、天文殿によく足を運んだ。柔然じゅうぜんによる国境侵犯があった。


この年、乞伏乾歸きっぷくけんきしん王を自称。また北燕ほくえんでは高雲こううんが殺され、馮跋ふうばつが立った。




天賜六年冬十月,清河王紹作逆,太祖崩。帝入誅紹。壬申,即皇帝位,大赦,改年為永興元年。追尊皇妣為宣穆皇后。公卿大臣先罷歸第不與朝政者,悉復登用之。詔南平公長孫嵩、北新侯安同對理民訟,簡賢任能,彝倫攸敍。閏十月丁亥,朱提王悅謀反,賜死。詔鄭兵將軍、山陽侯奚斤巡行諸州,問民疾苦,撫恤窮乏。十有二月戊戌,封衞王儀子良為南陽王,陰平公元烈進爵為王,高涼王樂真改封平陽王。己亥,帝始居西宮,御天文殿。蠕蠕犯塞。

是歲,乞伏乾歸據金城自稱秦王。高雲為海夷馮跋所滅,跋僭號,自稱大燕天王。


※資治通鑑掲載分

拓跋珪殺害後、天安殿てんあんでんの門戸は翌朝になっても開かなかった。やがて拓跋紹が詔勅を発し、門を開かせ、変事を聞き門前に押し寄せていた百官の前に姿を表す。拓跋紹は門の前から百官に呼びかける。

「我には叔父上があり、兄上がある。そなたらは誰に従うか?」

人々は顔色を失い、うつむき、もはや拓跋紹を止めるべく声を上げるものもいなかった。ややあって長孫嵩が進み出、「王に従いましょう」と申し出た。

人々は拓跋珪が死んだことを悟りはしたが、それを未然に食い止めることができなかったことを恥じ、誰もがまともに声を上げることも叶わずにいた。その中にあって拓跋儀の弟、拓跋烈は大いに嘆き悲しんだ上でその場を去った。

そこから朝廷内外では誰もがびくびくと怯え、人々はこのまま拓跋に従っても良いのかと思いさえしていた。

その中にあり、賀泥がでい安陽あんよう城の北で狼煙を上げる。賀蘭がらん部や他の諸部の者達も賀泥のもとに集う。こういった情勢を耳にした拓跋紹は褒美のバラマキを行ったが、崔宏さいこうはひとりその受取を拒否した。

拓跋嗣はこの変事を聞き、速やかに平城へいじょう近くにまで帰還。昼間は山中に隠れ、夜に王洛兒おうらくじの家に潜む。鄰人の李道りどうがひそかに拓跋嗣のための物資をもたらしていた。とは言え、この動きはすぐに露見。拓跋紹に密告される。拓跋紹は李道を捕らえ、殺害した。また拓跋嗣をも捕らえ殺害せんと図る。ここで叔孫俊しゅくそんしゅんと傍流宗族の拓跋磨渾たくばつまこんは拓跋紹に「我々が拓跋嗣のもとまで案内します」と言い出してきた。拓跋紹は配下ふたりを連れ立たせて向かわせる。叔孫俊らが無事拓跋紹の兵力範囲外に抜け出したところで配下らを捕縛。拓跋嗣のもとに赴き、拓跋嗣の前で斬り殺した。ちなみに叔孫俊は叔孫建しゅくそんけんの息子である。王洛兒は平城に向かい、大臣らと接見。夜中、安同らに拓跋嗣の健在を報告する。それを聞いた大臣らはみな喜び、我先にと拓跋嗣を迎えに出た。拓跋嗣が平城の西に到着したところで、衛兵が拓跋紹を捕らえ、連行してきた。拓跋嗣は拓跋紹と母の賀氏を殺害。更には天安殿で拓跋紹に呼応した側女や宦官十人あまりも殺した。その死体を膾切りとし、群臣らで食らいつくした。

拓跋嗣が即位すると、長孫嵩、安同、奚斤、崔宏、拓跋屈たくばつくつら八人を補佐に任じた。ときの人は彼らを八公と呼んだ。ちなみに拓跋屈は拓跋磨渾の父である。また拓跋什翼犍以来の賢臣である燕鳳や封懿らには拓跋嗣に経典を講義する役が与えられ、彼らもやはり朝政に参与させた。王洛兒、車路頭は散騎常侍となり、叔孫俊は衛將軍に、拓跋磨渾は尚書とされた。みな功績に応じ郡公、縣公に封じられた。

さらに拓跋嗣、旧来の臣下に、拓跋珪よりの信任を得ていたものがいたかどうかを問う。すると王洛兒が李先りせんの名を挙げた。李先を召喚すると、拓跋嗣は問う。「そなたはいかなる才でもって先帝陛下の信任を得ていたのだ?」「臣には才も功績もございません、ただその真っ直ぐな忠義心のみをお認めいただけたものと思っております」この発言を気に入った拓跋嗣、李先を安東將軍年、常にそばに置いて顧問とした。

一方こうした動きの中で、拓跋虔たくばつけんの息子、拓跋悅たくばつえつが罪を得た。このことから、いつ殺されるのかと怯えるようになった。


(魏書3-2)




資治通鑑が長い! まーしゃないですね、史料のあまりの少さから本紀はどうしても淡白にせざるを得ず、細かい話は列伝に回さないといけない。おかげで情報がバラバラに散らばってるんですが、司馬光しばこう先生、そのあたりを一所にまとめてくださいました。うん、長いとか文句言っちゃだめですね。先生のお仕事に感謝!

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