魏書3 太宗明元帝

拓跋嗣1  子貴母死

太宗たいそう明元帝めいげんてい拓跋嗣たくばつし拓跋珪たくばつけいの長子であり、母はりゅう貴人である。392 年に雲中宮うんちゅうきゅうにて生まれた。拓跋珪の長子誕生までにはかなり年月がかかったため、拓跋嗣の誕生に大いに喜び、大赦をなすほどであった。


拓跋嗣の人柄は明察・聡明・寛大・剛毅。礼に適っていないことはせず、その立ち振る舞いに拓跋珪も一目置かずにはおれなかった。403 年に齊王せいおうに封ぜられ、相國・車騎大將軍とされた。なお御年 12 歳。うーんこの。


北魏の因習と言えば子貴母死しきぼしである。拓跋嗣が皇太子として確定した段階で、母の劉氏は処刑される。そこで拓跋珪は拓跋嗣に対し、言う。


「昔、かん武帝ぶていが子を太子に立てたとき、母を殺した。これは婦人をみだりに国政に関わらせ、果てには外戚に権威を壟断させないようにするための施策である。お前にこの国を継がせる以上、おれは武帝の例にならい、国運長久を求めるのだ」


とは言え拓跋嗣は母を愛していた。そのため母の死にどうしても悲しみを抑えきることもできずにいた。そんな拓跋嗣に怒りを抑えきれない拓跋珪。拓跋嗣は自らに割り当てられている宮殿に戻ると、そこでも日夜泣き続ける。それを聞いた拓跋珪が改めて拓跋嗣を召喚。拓跋嗣が父の元に赴こうとしたとき、側仕えたちが言う。


「孝子は父に仕えるもの。とは言えささやかな罰であれば甘んじるにしても、重大な罰については避けるに越したこともありません。陛下のお怒りは盛ん。ここで下手に踏み入れてしまえば、何が起こるかの予測もつきません、下手をすれば陛下に不義の行いをさせてしまう恐れもございます。いまはどこぞへ脱出なさり、陛下のお怒りが解けてから改めて赴くのでも遅くはございません」


拓跋嗣は恐怖し、側仕えの言葉に従って宮殿外に脱出した。




太宗明元皇帝,諱嗣,太祖長子也,母曰劉貴人,登國七年生於雲中宮。太祖晚有子,聞而大悅,乃大赦天下。帝明叡寬毅,非禮不動,太祖甚奇之。天興六年,封齊王,拜相國,加車騎大將軍。

初,帝母劉貴人賜死,太祖告帝曰:「昔漢武帝將立其子而殺其母,不令婦人後與國政,使外家為亂。汝當繼統,故吾遠同漢武,為長久之計。」帝素純孝,哀泣不能自勝,太祖怒之。帝還宮,哀不自止,日夜號泣。太祖知而又召之。帝欲入,左右曰:「孝子事父,小杖則受,大杖避之。今陛下怒盛,入或不測,陷帝於不義。不如且出,待怒解而進,不晚也。」帝懼,從之,乃遊行逃於外。


(魏書3-1)




「陷帝於不義。」の書き方があんまりにも遠回しっぽいのにストレートでしゅき。ちなみに次のエピソードがいきなり拓跋紹たくばつしょうによる拓跋珪弑逆になります。どんだけ記録残ってないんですか。まぁ拓跋珪よりはマシっぽいよなァ。

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