拓跋珪45 崩御
408 年、
3 月、
この年、
409 年、拓跋珪が病を得た。日ごろ拓跋珪は寒食散を服用していたのだが、その処方にあたっていた
国内でなにか災いが起きれば憂悶をあらわとし、数日飲まず食わず、まともに寝られもしなくなることもあった。 また頻繁に臣下を糾弾するようにもなり、いっとき笑っていたと思えば、次の瞬間には激怒していることもあった。
「臣下も側近も信じることはできぬ」と思い込み、また占いで出た「肘腋の虞れ(身近なものにいきなり刺される危険性)あり」を信じ込み、警戒した。すでに決着がついたはずの過去の過失などを突然蒸し返し、日夜尽きることなくうわ言じみた独り言を繰り返す。まるで傍らに幽霊が何かを飼い、幽霊とのみ対話するかのようであった。
そこに誰か臣下が近づこうものなら、突然過去にあったミスを取りざたし、殺されてしまう。他にも拓跋珪を前にして顔色が変わったり、恐怖で呼吸を荒らげたり、足取りがおぼつかなくなったり、その言動に手落ちが出たりしようものなら「おれに悪意を懐くからこそ、行動が乱れるのだ」と思い込んで自ら打擲、殺害し、その死体を天安殿の前に並べた。
これでは到底政務も回るものではない。朝廷は常に恐怖に塗り固められるが、各役所は監視機能が滞ったのをいいことにだらけだし、各工事場では備品横領なども頻繁に発生するようになった。盗賊たちも我が物顔で振る舞ったため人々はおちおち外出もできなくなるありさま。しかし拓跋珪はそんな市井のありさまを聞いても「起こっていることは仕方があるまい。災が去って後、改めて世を清めるよりほかない」と述べた。
7 月、
8 月、
10 月、拓跋珪は天安殿で死んだ。39 歳であった。
410 年 9 月、
五年春正月,行幸犲山宮,遂如參合陂,觀漁於延水,至寧川。三月,姚興遣使朝貢。
是歲,皇孫燾生。
六年夏,帝不豫。初,帝服寒食散,自太醫令陰羌死後,藥數動發,至此逾甚。而災變屢見,憂懣不安,或數日不食,或不寢達旦。歸咎羣下,喜怒乖常,謂百僚左右人不可信,慮如天文之占,或有肘腋之虞。追思既往成敗得失,終日竟夜獨語不止,若旁有鬼物對揚者。朝臣至前,追其舊惡皆見殺害,其餘或以顏色變動,或以喘息不調,或以行步乖節,或以言辭失措,帝皆以為懷惡在心,變見於外,乃手自毆擊,死者皆陳天安殿前。於是朝野人情各懷危懼,有司懈怠,莫相督攝,百工偷劫,盜賊公行,巷里之間人為希少。帝亦聞之,曰:「朕縱之使然,待過災年,當更清治之爾。」
秋七月,慕容支屬百餘家,謀欲外奔,發覺,伏誅,死者三百餘人。八月,衞王儀謀叛,賜死。
冬十月戊辰,帝崩於天安殿,時年三十九。永興二年九月甲寅,上諡宣武皇帝,葬於盛樂金陵,廟號太祖。泰常五年,改諡曰道武。
※資治通鑑掲載分
これより以前、
昔、拓跋珪が
こうした中、拓跋珪は賀氏の妹を譴責。収監し、処刑しようと考えた。そこで賀氏の妹は密かに拓跋紹に使いをやり「どうにか助けてはくれまいか」と懇願した。このころ拓跋珪の残虐さは宮中の誰にとっても恐怖の的であった。拓跋紹は 16 歳、宮中の宦官や侍女と密かに通じ、生け垣を乗り越え、天安殿に乗り込む。それを見て側近は「賊が来た!」と叫ぶ。拓跋珪は驚いて飛び起きるも、弓矢も剣も手にすること叶わず、そのまま殺された。
(魏書2-45)
拓跋珪の最期、やべーな……ていうか穆崇と拓跋儀の動きに愛国無罪以外の言葉が思い浮かばない……おしなべて自業自得の最期と言うしかないわけですが、ただ北魏の覇権を築くために地獄オブ地獄に身を晒し続けて心が焼ききれてしまった末の寒石散服用→暴走だったでしょうから、なんつーか、お疲れ様、と。
とりあえず臣下らのとばっちりっぷりやべーわな!
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