拓跋珪44 功臣誅殺
407 年 2 月、息子の
5 月、
7 月、拓跋珪は濡源から西に向かい參合陂に。
8 月、犲山
11 月、平城に帰還。
この年、
四年春二月,封皇子脩為河間王,處文為長樂王,連為廣平王,黎為京兆王。
夏五月,北巡。自參合陂東過蟠羊山,大雨,暴水流輜重數百乘,殺百餘人。遂東北踰石漠,至長川,幸濡源。常山王遵有罪賜死。
秋七月,車駕自濡源西幸參合陂。築北宮垣,三旬而罷,乃還宮。八月,幸犲山宮。是月,誅司空庾岳。
冬十有一月,車駕還宮。
是歲,慕容寶養子高雲殺熙自立,赫連屈丐自稱大單于、大夏天王。
※資治通鑑掲載分
拓跋珪は捕虜としていた後秦將の
これを聞いて怒ったのが赫連勃勃である。拓跋珪に姚興が敵対していたからこその帰属であったのだが、それを裏切られてしまったのだ。そこで反旗を翻し、自立した。
(魏書2-44)
しれっとクッソ重臣が殺されてて恐い……拓跋遵に庾岳とか、どう考えても柱石レベルでしょうに。考えたのは次の拓跋嗣の時代のための露払い、なのかなあ。せめてそうであってほしいもんですが、もはや暴殺直前の年なのがなあ。
と言うわけで、次回で拓跋珪はしぬ。(ネタバレ)
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