拓跋珪43 穆崇薨去

406 年、拓跋珪たくばつけいは北宮である犲山宮さいさんきゅうに移動。狩猟大会を催し、屋孤山おくこさんに至った。

2 月、だい園山えんざんに出、五石亭ごせきていを建てた。

3 月、平城へいじょうに戻った。


4 月、再び犲山宮に出た。占術者の王宜弟おうぎていが『兵法ひょうほう孤虛こきょ立成圖りっせいず』三百六十編を編んだ。定襄ていじょう角史山かくしさんに登り、馬城ばじょうを経て平城に戻った。

柔然じゅうぜんが夜中に襲撃。兵を集め迎撃しようと動いたが、明け方ころには逃走していたので解散した。


6 月、平城近辺五百里にいる男性庶民を徴発、灅南宮るいなんきゅうを建築させた。その門の高さは五十メートルあまり。川の水を引いて掘らせた池を囲む庭園は八キロメートル四方の城壁によって区切られ、内部には市と里とが分けて設置された。その中では、東西に一本の大路が通された。三十日ほどして中断された。


7 月、太尉の穆崇ぼくすうが死亡した。

8 月、拓跋珪はまたも犲山宮に出、青牛山せいぎゅうさんに至った。そこから西進して武要ぶよう北原ほくげんに登り、九十九泉くじゅうくせんのほとりに石亭せきていを造り、石漠せきばくに赴いた。

9 月、漠南ばくなん鹽池えんちに到着。漠中ばくちゅうに向かい、天鹽池てんえんちに臨む。そこから北に向かい、吐鹽池とえんちに。南に戻り、長川ちょうせんに出る。長陂ちょうはを経て、10 月には平城に戻った。




三年春正月甲申,車駕北巡,幸犲山宮。校獵,至屋孤山。二月乙亥,幸代園山,建五石亭。三月庚子,車駕還宮。

夏四月庚申,復幸犲山宮。占授著作郎王宜弟造兵法孤虛立成圖三百六十時。遂登定襄角史山,又幸馬城。甲午,車駕還宮。是月,蠕蠕寇邊,夜召兵,將旦,賊走,乃罷。六月,發八部五百里內男丁築灅南宮,門闕高十餘丈;引溝穿池,廣苑囿;規立外城,方二十里,分置市里,經塗洞達。三十日罷。

秋七月,太尉穆崇薨。八月甲辰,行幸犲山宮,遂至青牛山。丙辰,西登武要北原,觀九十九泉,造石亭,遂之石漠。九月甲戌朔,幸漠南鹽池。壬午,至漠中,觀天鹽池;度漠,北之吐鹽池。癸巳,南還長川。丙申,臨觀長陂。

冬十月庚申,車駕還宮。



※資治通鑑掲載分

1 月、北魏の諸州には三人の刺史が、郡には三人の太守が、縣には三人の県令もしくは県長が置かれた。刺史およひ県令らは任地に向かわされたが、太守は設置こそされたが統治はせず、功臣のうち刺史クラスの官位持てる者は平城に帰還させられ、みな爵位と、それに見合った邸宅が与えられた。

6 月、拓跋珪は平城をぎょう洛陽らくよう長安ちょうあんのような立派な宮殿に建て替えたいと望んだ。このとき濟陽さいよう太守の莫題ばくだいがそういったスキルをもっているという話であったので召喚、予算や人員を与えた。しかし莫題はだらけきった仕事をなし、遅々として建築が進まない。このため拓跋珪は怒り、莫題を殺した。


(魏書2-43)




うーん宮殿の乱築とか典型的昏君ムーヴじゃないスカ。どうしてしまったんだ。五石散でだいぶバグってたのかなあ。よく崩壊しなかったな、そんだけ崔宏の取締がきっちりしてたということ?


にしても、魏帝のこの頻繁な移動はどうみなすべきなんだろう。いや「鮮卑拓跋部の大人」ならこんなもんかなって思うんです、けど漢制を取り入れた皇帝としての評価は難しい。実際魏収さんの筆もこの辺の移動についてやや戸惑ってる感をにじませてる気もしないではない。犲山宮で検索かければなんか論文出てきてくれるんでしょかね?

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