拓跋珪41 島夷滅楚

404 年、離石りせきに駐屯している劉託りゅうたくに三千騎を与え、蒲子ほしを攻撃させた。


3 月、姚興ようこうの配下将、衡譚こうたんを捕獲。また三千人余りを捕まえた。他方では国内各県のうち百世帯を切る県については解散、他県に編入させた。


4 月、公孫表こうそんひょう桓楚かんそに使者として派遣。あわせて桓玄かんげん政権の弱点を探らせようとした。ただし後に劉裕りゅうゆうのクーデターが発生するため引き返すことになる。

柔然じゅうぜんでは可汗かがん社崙しゃろんを暗殺せんと、いとこの悦伐えつばつ大那だいならが計画。しかし露見したため、北魏ほくぎに亡命してきた。



5 月、旧後燕エリアに諸郡主を任命。また各地に移住させたものらに武器防具の製造を任じた。


9 月、拓跋珪たくばつけい昭陽殿しょうようでんにて各官職の職務を専門化させ、あわせて文官武官をその能力に応じ抜擢、区分けした。爵位は四等とした。「王・公・侯・子」である。伯・男については廃止した。すでに登録されている臣下らについても改めて功績に応じ、新爵位に配した。

なおこの頃、桓玄の乱政により多くの江南人が亡命を開始。赤子を背中に結び、道中にひしめいていた。


10 月、大赦し、改元した。 西宮せいぐうができた。


11 月、拓跋珪は西宮入りし、臣下を招集。臣下らの宗族より才覚持てるもの、徳行あつき者を推挙するよう命じた。また戦争などで家主を喪った子弟ら二千名余りに、改めて爵位を授与した。


12 月、拓跋珪は犲山宮さいざんきゅうに出向いた。


なおこの年、劉裕りゅうゆうが桓玄を打倒している。




天賜元年春正月,遣離石護軍劉託率騎三千襲蒲子。三月丙寅,擒姚興寧北將軍、泰平太守衡譚,獲三千餘口。初限縣戶不滿百罷之。

夏四月,詔尚書郎中公孫表使於江南,以觀桓玄之釁也。值玄敗而還。蠕蠕社崙從弟悅伐大那等謀殺社崙而立大那。發覺,來奔。五月,置山東諸冶,發州郡徒謫造兵甲。

秋九月,帝臨昭陽殿,分置眾職,引朝臣文武,親自簡擇,量能叙用;制爵四等,曰「王、公、侯、子」,除伯、男之號;追錄舊臣,加以封爵,各有差。是秋,江南大亂,流民繈負而奔淮北,行道相尋。

冬十月辛巳,大赦,改元。築西宮。十有一月,上幸西宮,大選朝臣,令各辨宗黨,保舉才行,諸部子孫失業賜爵者二千餘人。十有二月戊辰,車駕幸犲山宮。

是歲,島夷劉裕起兵誅桓玄。


(魏書2-41)




突然の劉裕出現。この辺の北魏のインパクトはどれほどのものだったのでしょうね。ここでの劉裕は明らかに「桓玄に満足な準備期間を与えない」ことで勝っており、多分北魏にしてみれば「なんとなく名前を聞き及んでいた将軍の一人が前触れもなく桓玄を倒した」だったと思うのですよね。そいつは公孫表の動きが如実に語っています。まぁ引き返しますよね、一応桓玄を南方のボス扱いする親書持たせてたでしょうし。どのような内容が書いてあったのかとかは興味深いところ。


公孫表伝あたりに、この辺の劉裕ショックをうかがえる何らかの情報が載ってたら面白そうだよなぁー。まぁ期待してませんが。

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