拓跋珪40 立皇太子

403 年、朔方さくほう郡の尉遲うっち部から一万世帯あまりが帰属してきた。雲中うんちゅうに移住させた。


5 月、南方侵略軍を編成。長江ちょうこう淮水わいすい間のエリアに攻め込み、荊州けいしゅう揚州ようしゅうの擾乱に乗じて地域制圧を目論んだ。


7 月、拓跋順たくばつじゅんに過失があったため自宅蟄居となった。 拓跋珪たくばつけいは北巡し、離宮を犲山さいざんに築き、狩猟大会を実施した。その行動範囲は罽嶺しょうれいを越え、參合さんごう代谷だいこくにまで至った。


9 月、南平なんへい城に出たあと、灅南るいなんにて測量を行う。夏屋山かおくさんを正面、黃瓜堆こうかすいを背後に備えたこの地に、新たな都を建設しよう、と計画したのだ。とは言え、ひとまず拓跋珪自身はいちど平城に引き上げた。


10 月、西昭陽殿にししょうようでんが完成。また息子たちをそれぞれ王位につける。拓跋嗣たくばつし齊王せいおうに、拓跋紹たくばつしょう清河王せいがおうに、拓跋熙たくばつき陽平王ようへいおうに、拓跋曜たくばつよう河南王かなんおうに、といった具合だ。また亡き秦慜王しんびん王の子である拓跋夔たくばつき豫章王よしょうおうと、陳留王ちんりゅうおうの子である拓跋悦たくばつえつ朱提王しゅていおうとした。 伊謂いせいに二万騎を与え高車こうしゃを攻撃させた。東晋より遣使があった。


11 月、伊謂が高車を大破。


おの年、桓玄かんげんが簒奪をなし、大楚と僭稱した。





六年春正月辛未,朔方尉遲部別帥率萬餘家內屬,入居雲中。

夏五月,大簡輿徒,將略江淮,平荊揚之亂。

秋七月,鎮西大將軍、司隸校尉、毗陵王順有罪,以王還第。戊子,車駕北巡,築離宮于犲山,縱士校獵,東北踰罽嶺,出參合、代谷。九月,行幸南平城,規度灅南,面夏屋山,背黃瓜堆,將建新邑。辛未,車駕還宮。

冬十月,起西昭陽殿。乙卯,立皇子嗣為齊王,加車騎大將軍,位相國;紹為清河王,加征南大將軍;熙為陽平王;曜為河南王。封故秦慜王子夔為豫章王,陳留王子右將軍悅為朱提王。丁巳,詔將軍伊謂率騎二萬北襲高車。司馬德宗遣使朝貢。十有一月庚午,伊謂大破高車。

是年,島夷桓玄廢其主司馬德宗而自立,僭稱大楚。



※資治通鑑掲載分

この年、拓跋珪は官位に応じた冠や服装の規定をはじめて制定した。ただしその運用は徹底されてはいなかった。


(魏書2-40)

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