拓跋珪38 柴壁前夜

402 年、後燕こうえん慕容熙ぼようき遼西りょうせいを攻撃。宿沓干しゅくようかんらは迎撃に出たが敵わず、令支れいし確保を諦めた。

一方拓跋珪たくばつけいのもとには「姚興ようこう并州へいしゅう獲得を狙っている」という情報が入っていた。そこで守備部隊を選抜の上、平陽へいよう乾壁かんへきに兵糧を集積させた。

和突わとつによる黜弗ちゅつふつ素古延そこえん攻撃は成功に終わり、馬三千、牛羊七万あまりを獲得した。柔然じゅうぜん可汗の社崙しゃろんは救援の軍を発したが、和突は山南さんなん河曲かきょくにて撃退。却って重装馬二千あまりを獲得した。和突が帰還すると、功績に応じて家畜らは分配された。


2 月、拓跋遵たくばつじゅんらが安定あんてい高平こうへいに至る。没奕于ぼつえきうは数千騎を率いて劉衞辰りゅうえいしん赫連勃勃かくれんぼつぼつとともに逃走した。隴西ろうさい瓦亭がていに逃げ込まれたため撤収、その代わり輜重や財物、馬四万あまり、ラクダやヤク三千あまり、牛羊九万あまりを獲得した。やはり功績に応じ分配された。高平の民については都に移住させた。

仏僧の張翹ちょうぎょうが無上王と自称。丁零ていれい鮮于次保せんうじほとともに常山じょうざん行唐ぎょうとうに割拠した。ただし 4 月には常山太守の樓伏連ろうふくれんが平定した。


5 月、姚興が弟の姚平ようへいに四万の軍を与え乾壁を攻め落とした。

そこで 6 月、拓跋珪親征のための大軍を編んだ。また拓跋順たくばつじゅん長孫肥ちょうそんひらに六万騎を与え前鋒軍として派出した。




五年春正月丁丑,慕容熙遣將寇遼西,虎威將軍宿沓干等拒戰不利,棄令支而還。帝聞姚興將寇邊,庚寅,大簡輿徒,詔并州諸軍積穀于平陽之乾壁。戊子,材官將軍和突破黜弗、素古延等諸部,獲馬三千餘匹,牛羊七萬餘頭。辛卯,蠕蠕社崙遣騎救素古延等,和突逆擊破之于山南河曲,獲鎧馬二千餘匹。班師。賞賜將士各有差。

二月癸丑,征西大將軍、常山王遵等至安定之高平,木易于率數千騎與衞辰、屈丐棄國遁走,追至隴西瓦亭,不及而還。獲其輜重庫藏,馬四萬餘匹,駱駝、氂牛三千餘頭,牛、羊九萬餘口。班賜將士各有差。徙其民於京師。沙門張翹自號無上王,與丁零鮮于次保聚黨常山之行唐。夏四月,太守樓伏連討斬之。

五月,姚興遣其弟安北將軍、義陽公平率眾四萬來侵,平陽乾壁為平所陷。六月,治兵于東郊,部分眾軍,詔鎮西大將軍毗陵王順、長孫肥等三將六萬騎為前鋒。



※資治通鑑掲載分

後秦による平陽攻撃は、先立って魏将の貳塵じじんが河東郡を攻撃してきたことによる。これにより長安ちょうあん北魏ほくぎ軍を脅威と認識、関中諸城に厳戒態勢を布かせた上で、北魏討伐の軍を編んだのである。




木易于って没奕于のことらしいですわよ先生イー! 知ってた知ってた! うそ割と気付かなかった! 「読みは似てる……な?」とだけ思いはした! だってこの辺似た響きの名前の人が多いんですもん! 鮮卑せんぴ語か匈奴きょうど語かなんでしょうねえ。


それにしても魏書さん、しれっと後秦を悪人に仕立てる気まんまんで良いですね。そういうところ好きよ。

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