拓跋珪37 釈菜

401 年、高車こうしゃより更に三千世帯ほど降伏してくるものがあった。


2 月、整えた楽をもとに、楽団に教育訓練を施した。そして孔子こうしを讃え祀る儀式、釋菜しゃくさいを実施させる。また地方に監察官を派遣、悪政を布くものを報告させ、処罰した。


3 月、拓跋珪たくばつけいは河畔に出、河川の神を祭祀した。


4 月、ぎょうの仮軍府を解散させた。また隠逸の名士を見出し、登用するよう命じた。


5 月、紫極殿しごくでん玄武樓げんぶろう涼風觀りょうふうかん石池せきち鹿苑臺ろくえんだいを建設した。


7 月、長孫肥ちょうそんひに二万騎をあずけ許昌きょしょう彭城ほうじょうを襲撃させた。また天下の将士に功績に応じた褒賞を下賜した。


12 月、拓跋遵たくばつじゅんらに五万を与え多蘭部たらんぶ木易于もくえきうを攻撃させた。また和突わとつに六千騎を与え、黜弗部ちゅつふつぶ素古延部そこえんぶなどを攻撃させた。

博士や儒者らには諸経典の内容について比較検討をさせた。その解釈集成は四万字を越えた。眾文經しゅうぶんきょうと名付けられた。


この年には慕容盛ぼようせいが叔父の慕容熙ぼようきに殺された。呂纂りょさん呂隆りょりゅうに殺された。沮渠蒙遜そきょもうそん涼州りょうしゅう牧・張掖ちょうえき公と自称した。沮渠蒙遜と李暠りこうが争うように北魏ほくぎに遣使をなした。




四年春正月,高車別帥率其部三千餘落內附。二月丁亥,命樂師入學習舞,釋菜于先聖、先師。丁酉,分命使者循行州郡,聽察辭訟,糾劾不法。三月,帝親漁,薦于寢廟。

夏四月辛卯,罷鄴行臺。詔有司明揚隱逸。五月,起紫極殿、玄武樓、涼風觀、石池、鹿苑臺。

秋七月,詔鎮遠將軍、兗州刺史長孫肥步騎二萬南徇許昌、彭城。詔賜天下鎮戍將士布帛各有差。

冬十二月辛亥,詔征西大將軍、常山王遵等率眾五萬討破多蘭部帥木易于,材官將軍和突率騎六千襲黜弗、素古延等諸部。集博士儒生,比眾經文字,義類相從,凡四萬餘字,號曰眾文經。

是歲,慕容盛死,寶弟熙僭立。呂光弟子隆殺纂自立。盧水胡沮渠蒙遜私署涼州牧、張掖公。蒙遜及李暠並遣使朝貢。



※資治通鑑掲載分

7 月,長孫肥の彭城攻めを前に、東晋とうしん将の劉該りゅうがいが降伏した。

12 月、後燕こうえん領の令支れいし宿沓干しゅくようかんに攻撃させた。宇文拔うぶんばつが救援に出たが間に合わず、陥落。宿沓干はそのまま令支を拠点とした。


(魏書2-38)




うーん、このへんは「人口が漢人のほうが圧倒的に多い」ことから漢人寄りの儀式がなされてるんですかねえ。どうも拓跋珪の気持ちが全くわからないのでなんとも言い難い。あるいはこれ、拓跋由来の儀式を捨てなければならなかったことから拓跋珪はストレスを抱えたとか? どうなんだろ実は覇府制で、南都で漢式、北都で拓跋式祭祀をやる、とかじゃない? いや、それやっちゃうと権威が揺らぐかなあ。ううむ。


まぁ、わからんことだらけだ、で終わらすべきなんでしょう。

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