拓跋珪35 東晋は僭称者

12月、拓跋珪たくばつけいは詔勅を発する。


「世では劉邦りゅうほうは低い身分から立ち上がり、天下を取ったと言われている。が、それは正確ではあるまい。劉という姓はぎょうよりの血統を継承し、世に徳を広めている。龍のしるしを身に抱え、瞳は雲彩がごとくする。その頭上に五つの惑星を集め、天命にも人にも恵まれた。かくてかんの御代の主として数多なす幸運に恵まれるなぞ、ただの人になし得る功績ではあるまい。


 一方でこの百年来中原を踏み荒した狂賊共が次々に打ち倒れていった理由はといえば、それはいたずらに手腕や方法論なぞに堕して、そもそもの天命を求めなかったからに他ならぬ。道路からはみ出し、転げ落ちた車のわだちの跡をたどり、愚かな逆賊共のマネごとをするのみならず、極悪なものは統治郡県を荒廃させ、マシなものでも村邑を痛めつけ、こうして死後には名を貶め、更に余罪が九族に災いをもたらせさえした。乱世に乗じて好き放題をすれば処罰されるのなぞ分かりきっておろうに、死してなお悔いもせぬとは、なんとも情けのなきことではないか!


 春秋しゅんじゅうにては中華統一を至上の美とする。ならば吳楚ごその僭称者には天罰を下さねばならぬ。およそ心あるものであれば、かの者らの偽称を軽侮しようし、塵芥のほうがまだマシだ、とすら言おう。奴らは聖なるものも徳なるものも継いでおらず、天と人との調和、帝王としての責務も、どうして奴らのもとにもたらされようというのだ。歴史を通観しても、不義なるものが非常の大権を望めば、その家門すらまともに保ちきれず、刀やのこぎりのもとにその首を切り落とされることとなる。


 国家を真に運営しうるものであれば、誰が栄え誰が滅びるかの原則をよくよく詳察し、より天命がまるで動いていなかったことを示したうえ、真なる天命が水面下にて引き継がれていたものであったことに速やかに気づくものである。下らぬプロパガンダの数々なぞ意にも介さぬし、江南こうなんのクソによる正統宣言は鼻で笑ってこそいる。とは言え、奴らがあくまで臣下としての分を全うするのであれば、その多福を願わぬでもない。この思いは神智と呼ぶに相応しかろう。そうして我らを宗主として崇めれば、後世にもその繁栄を保ち置くことが叶うのである。これが叶わば不幸も災いも起こらず、ならばどうして軍同士の争いなぞも起こりえようか? よく身を戒め、望ましき未来を思われよ。どこに慎ましまぬ理由があろうか!」




十有二月乙未,詔曰:「世俗謂漢高起於布衣而有天下,此未達其故也。夫劉承堯統,曠世繼德,有蛇龍之徵,致雲彩之應,五緯上聚,天人俱協,明革命之主,大運所鍾,不可以非望求也。然狂狡之徒,所以顛蹶而不已者,誠惑於逐鹿之說,而迷於天命也。故有踵覆車之軌,蹈釁逆之蹤,毒甚者傾州郡,害微者敗邑里,至乃身死名頹,殃及九族,從亂隨流,死而不悔,豈不痛哉!春秋之義,大一統之美,吳楚僭號,久加誅絕,君子賤其偽名,比之塵垢。自非繼聖載德,天人合會,帝王之業,夫豈虛應。歷觀古今,不義而求非望者,徒喪其保家之道,而伏刀鋸之誅。有國有家者,誠能推廢興之有期,審天命之不易,察徵應之潛授,杜競逐之邪言,絕姦雄之僭肆,思多福於止足,則幾於神智矣。如此,則可以保榮祿於天年,流餘慶於後世。夫然,故禍悖無緣而生,兵甲何因而起?凡厥來世,勗哉戒之,可不慎歟!」


(魏書2-36)




東晋くんいい加減配下に下ろうや、なぁ? 感が全開で素敵ですわね。まぁこの頃の東晋ってグズグズ&グズグズですものね。まさかこっから突然劉裕みたいな厄種が東晋を強国に染め上げるなんて、どうして想像したものでしょうか。


「ファッ!!?!?!?!?」


ってなったよね絶対、北魏の皆さんw

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