拓跋珪33 太廟祭祀

10 月、太廟が落成した。祭祀された主要な先祖は神元帝じんげんてい拓跋力微たくばつりきび平文帝へいぶんてい拓跋鬱律たくばつうつりつ昭成帝しょうせいてい拓跋たくばつ什翼犍じゅうよくけん獻明帝けんめいてい拓跋寔たくばつしょくである。


12 月、慕容盛ぼようせい後燕こうえんの配下将、高湖こうこが三千世帯を引き連れ、帰順してきた。

和突わとつ盧溥ろふを討伐すべく出征させた。天華殿てんかでんが完成した。


この年、後涼こうりょう呂光りょこうが息子の呂紹りょしょうに禅譲、まもなく死亡した。しかし庶子の呂纂りょさんが簒奪。呂紹は殺された。

また南涼なんりょうでも禿髮烏孤とくはつうこが死亡。弟の禿髪とくはつ利鹿孤りろくこが代わりに即位。北魏ほくぎに使者を遣わせた。




冬十月,太廟成,遷神元、平文、昭成、獻明皇帝神主于太廟。十有二月甲午,慕容盛征虜將軍、燕郡太守高湖,率戶三千內屬。辛亥,詔材官將軍和突討盧溥。天華殿成。是歲,呂光立其子紹為天王,自稱太上皇。光死,庶子纂殺紹僭立。禿髮烏孤死,弟鹿孤代立,遣使朝貢。



※資治通鑑掲載分

10 月、穆崇ぼくすう野王やおう守備に任じた。

12 月、劉衛辰りゅうえいしんの子である劉文鎮りゅうぶんちんが北魏に投降。拓跋珪たくばつけいは宗族の娘を妻にめあわせ、あわせて宿しゅくという姓を与えた。




拓跋力微を一つの契機としているのは、「魏」という国号に重みを持たせるための施策なのでしょうね。三国魏と接続していて、そこと接続している、と語る。それはつまり西晋の時代からもう晋はクソでした宣言。「皇帝を名乗る」とは、つまりそういうこと。だからはじめは土徳だったんですねえ。


この辺の由緒整備、考え出す漢人官僚たちは大変だったろうなあ。あるいは崔宏さいこうさんがチョチョイのちょいで整備したとか? あのひとあからさまに遅れての参画なくせに、一気に文人トップに躍り出てるのがキモいですよね。

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