拓跋珪32 張袞の推挙

7 月、天華殿てんかでんが建設された。鹿苑ろくえんにて宴会が開かれ、功績に応じた褒美を下した。ちん郡・河南かなんの流民一万世帯あまりが北魏ほくぎを頼ってきたので、慰労の使者を遣わせた。


姚興ようこう洛陽らくようを襲撃。東晋とうしん将の辛恭靖しんきょうせいが援軍を要請してきた。8 月に入ったところで穆崇ぼくすうに六千騎を与え救援に向かわせた。


平城へいじょうに十二の門を増設。また西に武具庫を設けた。納税を半額とした。禮官に命じ、様々なタイミングにおける儀式式次を取りまとめさせ、法令に追記させた。


范陽はんよう盧溥ろふが海沿いで決起。使持節・征北大將軍・幽州ゆうしゅう刺史を自称し、幽州刺史の封沓干ふうようかんを殺す。一方では慕容盛ぼようせい後燕こうえん将の李朗りろうが、遼西りょうさい郡を引っさげ投降してきた。あわせて西河せいが護諾于ごだくう丁零ていれい翟同てきどうしょく韓礱かんしゅうなども帰順を表明した。




秋七月,起天華殿。辛酉,大閱于鹿苑,饗賜各有差。陳郡、河南流民萬餘口內徙,遣使者存勞之。姚興遣眾圍洛陽,司馬德宗將辛恭靖請救。八月,遣太尉穆崇率騎六千往赴之。增啟京師十二門。作西武庫。除州郡民租賦之半。辛亥,詔禮官備撰眾儀,著于新令。范陽人盧溥,聚眾海濱,稱使持節、征北大將軍、幽州刺史,攻掠郡縣,殺幽州刺史封沓干。慕容盛遼西太守李朗,舉郡內屬。西河胡帥護諾于、丁零帥翟同、蜀帥韓礱,並相率內附。



※資治通鑑掲載分

張袞ちょうこんはその將才により拓跋珪たくばつけいに重んじられていた。そんな張袞が推挙したのが盧溥ろふ崔逞さいていであり、どちらも登用された。

拓跋珪が中山ちゅうざんを落とせずにいた頃、兵糧が底をつきかける。ここからどう戦いを進めるべきかを臣下に諮問したところ、崔逞は答えている。

「クワやサワラを兵糧にあてればよろしいでしょう。オウムはサワラを食してその歌声を調整すると詩人も申しております」

拓跋珪はこの進言を採用こそしたものの、その発言の傲慢ぶりにはいらだちを覚えていた。

後秦こうしん軍が襄陽じょうようを攻撃してきたとき、東晋将の郗恢ちかいは書面にて拓跋遵たくばつじゅんに救援を依頼した。その書面には「そなたの兄上が中原を虎步されるのを覽たくはないか?」と書かれていた。拓跋珪は郗恢の書きぶりに君臣の礼がないことに怒り(虎歩は王者というより猛将だとかに用いられる言葉)、張袞や崔逞に「郗恢の君主を貶めた返書を綴れ」と命じた。しかし両名の書いた手紙ではむしろ孝武帝こうぶていを「貴主」を記述。拓跋珪はこれにも怒り、言う。

「貴様らには司馬曜しばようを貶めるべく命じたであろう! だのに『貴主』や『賢兄』とはどういうことだ!」

そもそも崔逞が魏に降ったのは天下が乱れ、子孫が残せなくなるであろうことを恐れてのものであった。妻のちょう氏と四人の子は冀州きしゅうに留め置き、末っ子の崔賾さいせきだけを連れて平城に赴いたのである。なお妻子はその後南燕に亡命した。拓跋珪はそのことも含めて崔逞を譴責、処刑した。

これに加えて、盧溥である。拓跋珪は張袞の推挙したものがことごとくクソであることを指摘、罷免した。同年末、張袞は自殺した。

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