拓跋珪30 高車襲撃

405 年、天帝を南郊に祠り、拓跋力微たくばつりきびを合わせて祭祀した。首都近郊での大赦を為した。三駕の法を制定した。

拓跋珪たくばつけいは北方に出、諸将とともに高車こうしゃを襲撃。拓跋遵たくばつじゅんら三軍には東回りで長川ちょうせんに出させ、拓跋楽真たくばつがくしんら七軍に西回りで牛川に出させた。拓跋珪は六軍を引き正面より駮髯水こうぜんすいの西北に出る。


2 月、諸軍は合流、高車の三十部族混成軍を撃破。七万あまりの労働人口、馬三十万余頭、牛羊百四十万余頭をさらった。拓跋儀たくばつぎは三万騎の別軍を率いて西北から高車に侵入、別の七部族を破り、二万人あまりの人、馬五万頭あまり、牛羊二十万頭あまりをさらった。こうして高車の領地や衣服、諸資材を大いに奪った。

拓跋珪は牛川ぎゅうせんを経て薄山はくざんにいたり、石に功績を刻みつけた上、手に入れた物資を配下に功績に応じ分け与えた。

庾岳ゆがく勃海ぼっかい張超ちょうちょうを破った。張超は平原へいげんに逃げたが、そこで配下に殺された。

高車より拉致した人々を動員して鹿苑ろくえんを建設。南は台陰だいいんから、北は長城ちょうじょうにまでおよび、東は白登山はくとうさんすら包み、西山まで伸ばした。その策の範囲は100キロメートル近くにも及び、武川の水を引き入れて庭園の中に通し、三つの流れにわけ宮城內外に通した。また鴻雁池こうがんちをもうけた。




二年春正月甲子,初祠上帝于南郊,以始祖神元皇帝配,降壇視燎,成禮而反。乙丑,曲赦京師。始制三駕之法。庚午,車駕北巡,分命諸將大襲高車,大將軍、常山王遵等三軍從東道出長川,鎮北將軍高涼王樂真等七軍從西道出牛川,車駕親勒六軍從中道自駮髯水西北。二月丁亥朔,諸軍同會,破高車雜種三十餘部,獲七萬餘口,馬三十餘萬匹,牛羊百四十餘萬。驃騎大將軍、衞王儀督三萬騎別從西北絕漠千餘里,破其遺迸七部,獲二萬餘口,馬五萬餘匹,牛羊二十餘萬頭,高車二十餘萬乘,并服玩諸物。還次牛川及薄山,並刻石記功,班賜從臣各有差。庚戌,征虜將軍庾岳破張超於勃海。超走平原,為其黨所殺。以所獲高車眾起鹿苑,南因臺陰,北距長城,東包白登,屬之西山,廣輪數十里,鑿渠引武川水注之苑中,疏為三溝,分流宮城內外。又穿鴻雁池。


(魏書2-30)




あかん、やってることがマジロシア……あかん……。

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