拓跋珪26 国号論議

6 月、拓跋珪たくばつけいは国号を何と定めるべきか議論させた。


「昔、しゅうしん以前は、みな生まれ故郷に暮らし、その地で国家を打ち立てました。そうして天下の覇ともなれば、生まれた地を由来として国号を立てたもの。

 しかるにかん以降、侯の位が撤廃され、太守が置かれるようになりました。そしてこれは代々継承するような性質ではなく、そのため太守や刺史といった地歩を基として立身した者は、土地の恩恵に与ることもできずにおりました。

 一方で、我らは先祖代々の土地に恵まれ、雲中うんちゅうだいにて覇業を啓くことが叶っております。ならば国運長久を願うのに、代を国号とするのがよろしかろうと思われます」


これが意見の大勢であったが、その中にあって崔宏さいこうをはじめとした反対意見も上がり、最終的には以下の通りの詔勅が発布されている。


「朕の先祖は幽遠の地に都を拓き、遠方の地を統べるに至った。やがて王位を得たとは言えど、結局天下を治めることはできずにいた。そして代が我が身に及んでみれば、天下は分裂し、主もなきありさま。黄河こうが流域の者たちと我らが民俗を異にするとはいえども、彼らを徳にて慰撫せねばならぬ。

 故に自ら軍を率い、かの者らの地の平定に当たってきた。ここで凶逆なる者どもを相当しきれば、遠近の諸侯は朕のもとに服属するであろう。ならばここで我らが名乗るべきは以外にない。

 上記の旨天下に布告し、我が意をあまねく伝えるようにせよ」




六月丙子,詔有司議定國號。羣臣曰:「昔周秦以前,世居所生之土,有國有家,及王天下,即承為號。自漢以來,罷侯置守,時無世繼,其應運而起者,皆不由尺土之資。今國家萬世相承,啟基雲代。臣等以為若取長遠,應以代為號。」詔曰:「昔朕遠祖,總御幽都,控制遐國,雖踐王位,未定九州。逮于朕躬,處百代之季,天下分裂,諸華乏主。[10]民俗雖殊,撫之在德,故躬率六軍,掃平中土,凶逆蕩除,遐邇率服。宜仍先號,以為魏焉。布告天下,咸知朕意。」



※資治通鑑掲載分

崔宏の発議は以下の通りである。「昔、しょうの国の者は頻繁に都を移し、そのためいんと商との両国名にて呼ばれるようになりました。代は確かに陛下の故地。しかしいま天命が新たに下っており、登國とうこくのみぎりにいちど魏を名乗っております。ここで魏とは春秋より続く由緒正しき名。ならば陛下が天下に覇を唱えるに当たり、魏と名乗るのがよろしかろうと思われます」


(魏書2-26)




拓跋珪が 386 年、つまりこの話の12年前に魏王を名乗ったところから崔宏はそのまま魏を名乗るべき、と語り、それがいわゆる「中華」向けの国号として運用されるに至りました(墓誌等によると国内では代の国号も並行して運用されていたそうです。そうすると崔宏が敢えて殷と商の例を持ち出したのには何らかの意図を感じずにおれません)。


さて、ではなんで拓跋珪が魏王を過去に名乗ったのか? ちなみに 386 年冒頭にいちど代王を名乗っているのを、すみやかに変更しているんです。ここには何らかの契機があった、と見なすべきでしょう。資治通鑑しじつがんを見てみます。


西燕左僕射慕容恆、尚書慕容永襲段隨,殺之;立宜都王子顗為燕王,改元建明,帥鮮卑男女四十餘萬口去長安而東。恆弟護軍將軍韜,誘顗於臨晉,恆怒,捨韜去詠與武衛將軍刁雲帥眾攻韜。韜敗,奔恆營。恆立西燕主沖之子瑤為帝,改元建平,謚沖曰威皇帝。眾皆去瑤奔永,永執瑤,殺之,立慕容泓子忠為帝,改元建武。忠以永為太尉,守尚書令,封河東公。永持法寬平,鮮卑安之。至聞喜,聞燕主垂已稱尊號,不敢進,築燕熙城而居之。


西燕せいえん慕容沖ぼようちゅうが殺されて以降、血で血を洗う内紛により慕容泓ぼようおうの子である慕容忠ぼようちゅうをトップに据え、慕容永ぼようえいがそれをサポートすると言う形での体制が取られ、長安ちょうあんより東方に移動。そして慕容垂ぼようすいに合流しようとするのですが、ここで「慕容垂が皇帝を自称」。つまり本来燕の正統であるはずの慕容忠をないがしろとしました。


そのため西燕の軍勢は慕容垂に合流せず、一度聞喜ぶんきでストップしました。聞喜とは河東かとう郡で、汾水ふんすい流域を遡れば拓跋珪の支配領域にも通じてきます。そして、その二ヶ月後に拓跋珪が魏王を自称。ちなみに聞喜とは「長安から見た、魏への入り口」です。そして慕容永、386 年 10 月には苻丕ふひ王永おうえい軍を破砕した後、長子ちょうし入り。そして長子とはどのような場所か? 「魏」です。ど真ん中。


以上より妄想を広げれば、慕容永は最終的に燕の地を獲得する=慕容垂を滅ぼすため拓跋珪に助力を依頼、そして苻丕王永勢力が割拠していた魏のエリアを「拓跋珪に進呈する」という密約をしていたのかもしれません。すなわち「拓跋珪の服属勢力として慕容永は長子入りした」と妄想もなしえるのです。


拓跋珪が魏という国号を持ち出すに当たり、言い出したのは「劉邦りゅうほう漢中かんちゅう王を名乗って天下を平定したあと、国号にしたのはかんであった」ということ。自身が魏を国号にしたのにはそのロジックが働いている、と語っています。しかし拓跋珪自身が魏と呼ばれる領域を直接獲得できたのは参合陂さんごうはのあと。つまり 395 年以降です。この段階では魏に到底支配力を及ぼせるはずもありませんでした。


そして 386 年当時に魏に大きな影響力をもたらしていたのは、慕容永勢力だったわけです。


……と言う妄想を、いま書いてる小説でぶちかましてます。あー、早く完成させて妄想垂れ流したい☆

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