拓跋珪24 鄴獲得
398 年。
拓跋珪は鄴城内をめぐり、将来的にはこの城を都と定めるべきであると考えた。そこで仮政府を置き、
その後拓跋珪は中山に戻りながら、道すがらの諸郡を訪問して回った。また詔勅を下し、戦乱に巻き込まれた郡県については過去一年分の課税を返却の上、さらにこの後に納める税を半額とした。
東回りで
案の定拓跋珪帰還の報を聞き、
拓跋珪は
天興元年春正月,慕容德走保滑臺,儀克鄴,收其倉庫。詔賞將士各有差。儀追德至於河,不及而還。庚子,車駕自中山行幸常山之真定,次趙郡之高邑,遂幸于鄴。民有老不能自存者,詔郡縣賑恤之。帝至鄴,巡登臺榭,遍覽宮城,將有定都之意。乃置行臺,以龍驤將軍日南公和跋為尚書,與左丞賈彝率郎吏及兵五千人鎮鄴。車駕自鄴還中山,所過存問百姓。詔大軍所經州郡,復貲租一年,除山東民租賦之半。車駕將北還,發卒萬人治直道,自望都鐵關鑿恒嶺至代五百餘里。帝慮還後山東有變,乃置行臺於中山,詔左丞相、守尚書令、衞王儀鎮中山,撫軍大將軍、略陽公元遵鎮勃海之合口。右軍將軍尹國先督租于冀州,聞帝將還,謀反,欲襲信都,安南將軍長孫嵩執送,斬之。辛酉,車駕發自中山,至于望都堯山。徙山東六州民吏及徒何、高麗雜夷三十六萬,百工伎巧十萬餘口,以充京師。車駕次于恒山之陽。博陵、勃海、章武羣盜並起,略陽公元遵等討平之。廣川太守賀盧殺冀州刺史王輔,驅勒守兵,抄掠陽平、頓丘諸郡,遂南渡河,奔慕容德。
※資治通鑑掲載分
拓跋珪は中山から南下、高邑にて
(魏書2-24)
ようやく事態が大きく動いた感じ。この中山および鄴獲得は、劉裕と北魏が絡むことになる重大な一歩ですからね。
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