拓跋珪23 中山獲得

10月、拓跋珪たくばつけいは軍を新巿しんしに進めた。慕容麟ぼようりん泒水かすいを天然の堀とすべく撤退。翌日進軍した拓跋珪は義臺塢ぎだいうにて慕容麟軍を大破、九千人あまりを斬った。慕容麟はひとり西山さいざんに逃れた後、更にぎょうに落ち延びる。慕容徳ぼようとくは慕容麟を殺した。


これにより後燕こうえんの手のもの二万人あまりが投降してきた。張驤ちょうじょう李沈りしん慕容文ぼようぶんらがはじめに投降して者たちの中で主だった者である。逃亡した者もあったが、これらに追っ手を飛ばし、捕獲。とは言え特に罪には問わず、降伏を許した。


後燕に伝わっていた皇帝の璽綬・図書・府庫・珍宝の目録には数万点が載っていた。後燕征伐に功のあった者たちにそれぞれ功績に合わせた褒賞を与え、こうして拓跋珪は中山ちゅうざんの獲得を為し遂げた。


数日後、拓跋題たくばつだいが死亡した。


拓跋珪はここで再び三万騎を動かし、拓跋儀たくばつぎの鄴攻めに加勢させた。


ちなみにこの年、南涼なんりょう禿髮烏孤とくはつうこが大單于・西平せいへい王と自称している。




冬十月丙寅,帝進軍新巿,賀麟退阻泒水,依漸洳澤以自固。甲戌,帝臨其營,戰於義臺塢,大破之,斬首九千餘級。賀麟單馬走西山,遂奔鄴,慕容德殺之。甲申,其所署公卿、尚書、將吏、士卒降者二萬餘人。其將張驤、李沈、慕容文等先來降,尋皆亡還,是日復獲之,皆赦而不問。獲其所傳皇帝璽綬、圖書、府庫、珍寶,簿列數萬。班賜功臣及將士各有差。中山平。乙酉,襄城王題薨。丁亥,遣三萬騎赴衞王儀,將以攻鄴。是歲,鮮卑禿髮烏孤私署大單于、西平王。



※資治通鑑掲載分

11月、拓跋珪は鄧淵とうえんに官制や音律を、董謐とうひつに禮儀を、王徳おうとくに律令、晁崇ちょうすうに天象を制定させ、これらの諸制度を崔宏さいこうに監修させた。

12月、拓跋珪は皇帝となり、天興てんこうと改元した。


(魏書2-23)




後燕の決定的破砕が拓跋珪の皇帝即位のきっかけ、ともなれば、なんだかんだで北魏は後燕の継承国家的な立場を取ったということになるんでしょうかね。

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