拓跋珪18 後燕包囲2

2 月。拓跋珪たくばつけい楊城ようじょうに進出。鉅鹿きょろく栢肆塢はくしんうに出、呼沱水こだすいに臨む。 そこに慕容宝ぼようほうが夜襲をかけた。兵士らが驚き混乱する中、拓跋珪は裸足で外に飛び出、軍令の太鼓を鳴らした。この音を聞き中央軍の将軍らは拓跋珪のもとに集合。すぐさま臨時の陣営を構え体制を整え、騎兵隊を編み逆襲、後燕こうえん軍を返り討ちとした。万余の首をあげ、高長こうちょうら四千人あまりをとらえた。慕容宝軍は中山に撤退。器材や輜重、十万以上を獲得した。


この戦いを経て、後燕士大夫の閔亮びんりょう崔逞さいてい孫沂そんし孟輔もうほらが投降。以後も投降者が陸続し、拓跋珪はやってきたものにそれぞれ職位、爵位を与えた。


平原へいげん郡で、徐超じょちょう畔城はんじょうを拠点に謀反を起こす。奚辱けいじょくを派遣、平定させた。并州へいしゅう封真ふうしんもまた一族とともに抵抗。拓跋素延たくばつそえんを攻めたが、拓跋素延により討伐された。


一方拓跋珪が本陣を置く栢肆の陣周辺では多くの流言飛語が飛び、賀蘭がらん部の賀力眷がりきけん紇突隣きっとつりん部の匿物尼とくぶつに紇奚きっけい部の叱奴根しつどこんと言った面子が陰館いんかんで乱を起こした。拓跋順たくばつじゅんが討伐にあたったのだが敗北、数千の被害を出した。そこで拓跋珪は庾岳ゆがくに統帥権を預けた。するとたちまち殲滅した。



二月己巳,帝進幸楊城。丁丑,軍于鉅鹿之栢肆塢,臨呼沱水。其夜,寶悉眾犯營,燎及行宮,兵人駭散。帝驚起,不及衣冠,跣出擊鼓。俄而左右及中軍將士,稍稍來集。帝設奇陳,列烽營外,縱騎衝之,寶眾大敗,斬首萬餘級,擒其將軍高長等四千餘人。戊寅,寶走中山,獲其器仗輜重數十萬計。寶尚書閔亮、秘書監崔逞、太常孫沂、殿中侍御史孟輔等並降。降者相屬,賜拜職爵各有差。平原徐超聚眾反於畔城,詔將軍奚辱捕斬之。并州守將封真率其種族與徒何為逆,將攻刺史元延,延討平之。是時,栢肆之役,遠近流言,賀蘭部帥附力眷、紇突隣部帥匿物尼、紇奚部帥叱奴根聚黨反於陰館,南安公元順率軍討之,不克,死者數千。詔安遠將軍庾岳總萬騎,還討叱奴根等,滅之。



※資治通鑑掲載分

拓跋珪が楊城入りしたとき、沒根の甥、醜提がおじの後燕投降を聞き、このままでは殺されるのではないかと恐れ、乱を起こした。一方拓跋珪はいい加減引き返したいと思っていたため涉延を派遣、自らの弟を人質に差し出した上で和睦しようと考えていた。しかし慕容宝のもとに届くのは、北魏の内部事情の乱れである。そこで蘭真に拓跋珪が旧恩に背く不義理を見せたと糾弾したうえ、二十万の歩兵、三万七千の騎兵を動員。曲陽の柏肆に駐屯し、滹沱水の北にて迎撃すべく進出した。北魏軍が川の南にまで進んだその夜、慕容宝は密かに軍を渡河させ、襲撃。合わせて火を放てば、その火が風に乗って北魏軍を襲う。北魏軍は大いに乱れるが、魏書にもあった通り拓跋珪の号令によって中央軍が収集される。そして立て直した軍で夜襲軍を大敗させた。翌朝、改めて北魏軍は川を渡り後燕軍と向かい合うも、既に後燕軍の士気は阻喪していた。慕容宝は中山に撤収。拓跋珪は追撃を掛けた。このとき風雪激しく、多くの凍死者を出した。なおこの時獲得した人材のうち、拓跋珪は特に崔逞の合流に喜んだという。

一方中山では慕輿皓による慕容宝殺害謀議が起きていた。代わりに慕容麟を立てよう、と言うのだ。この謀議は不発に終わり、慕輿皓は北魏に亡命。慕容宝と慕容麟の間には不和が生まれた。敵軍の包囲が長くなってきたため後燕軍では打って出るべきと言う声も上がりはじめたが、却下された。やがて慕容宝は拓跋觚の返還、常山以西の割譲を条件に講和を申し出た。拓跋珪もこれを受け入れた。


(魏書2-18)




拓跋のピンチを書くとか珍しい! ……って言おうと思ったら一瞬にして逆転されて、後燕ェ……ってなりました。ちょっとそこまで押し込んだのに逆転食らうとかやばない? そしてそのままぐだぐだになるし。この辺は慕容麟とか慕容隆のあたりで見たことですね。今更慕容宝に戻る気にもなれん。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る