拓跋珪16 後燕攻撃(笑)

10月、拓跋珪たくばつけい井陘せいけいに出向き、王建おうけん李栗りりつに五万騎を預け先行させた。


11月に真定しんていに到着。常山じょうざん以東の後燕守将らはみな城を捨てて逃亡、もしくは北魏ほくぎ軍に降伏してきた。瞬く間に後燕こうえん領城は中山ちゅうざんぎょう信都しんとのみとなった。そこで拓跋儀たくばつぎに五万騎を率いて南の鄴に向かわせ、王建や李栗らには信都を攻めさせた。また侵攻の際には、地元の民が育てた作物を痛めつけないよう配慮させた。


拓跋珪自身で中山を包囲。諸将に告げる。


慕容宝ぼようほうはまともに迎撃するつもりもあるまい、籠城し、日時を稼ぐ心づもりであろう。ならばこちらも慌てて攻め立てようとはせず、奴らの兵糧を削り取り、その間に鄴と信都を平定するのが良い。そして仕上げに中山を落とすのだ。ここで少し包囲を緩めれば慕容宝は周辺諸城より糧食を求めるであろう。そうすれば燕人の心は慕容宝から離れ行こう。ここを攻めれば、勝利も容易い」


この提示に対し、諸将は良策であると賛同した。そして八日後、拓跋珪は魯口ろこう城に陣を移した。


なおこの年、東晋とうしん孝武帝こうぶてい司馬曜しばようが死亡し、子の司馬徳宗しばとくそうが新たに皇帝として立ち、遣使をなしてきた。また呂光りょこうが天王を自称、大涼だいりょうと国号を名乗り、やはり遣使をなした。




冬十月乙酉,車駕出井陘,使冠軍將軍王建、左軍將軍李栗五萬騎先驅啟行。十有一月庚子朔,帝至真定。自常山以東,守宰或捐城奔竄,或稽顙軍門,唯中山、鄴、信都三城不下。別詔征東大將軍東平公儀五萬騎南攻鄴,冠軍將軍王建、左軍將軍李栗等攻信都,軍之所行,不得傷民桑棗。戊午,進軍中山;己未,引騎圍之。帝謂諸將曰:「朕量寶不能出戰,必當憑城自守,偷延日月,急攻則傷士,久守則費糧,不如先平鄴、信都,然後還取中山,於計為便。若移軍遠去,寶必散眾求食民間,如此,則人心離阻,攻之易克。」諸將稱善。丁卯,車駕幸魯口城。是歲,司馬昌明死,子德宗僭立,遣使朝貢。呂光僭稱天王,號大涼,遣使朝貢。




※資治通鑑掲載分


10 月、拓跋珪は于栗磾うりつてい公孫蘭こうそんらんに二万騎を率いさせ、ひそかに晉陽しんようから楚漢そかん戦争時に韓信かんしんが開通したとされる道を確保させた。その道を使って拓跋珪は井陘を経て中山に出た。李先りせんは魏に投降した。

拓跋珪は常山を陥落させ、太守の苟延こうえんをとらえた。


11 月、拓跋珪自ら攻めた中山で慕容隆ぼようりゅうよりの逆撃を受け、多大な被害を出した。つまり上記拓跋珪のコメントは「やべー後燕軍つえーあんま近寄れねー」の意である。

魯口に陣取った拓跋珪は、逃れようとした崔宏さいこうを捕らえ、自らのもとに引き立てた。以降、張袞ちょうこんらと共に諸制度の成立に携わらせた。

一方、鄴でもやはり北魏軍は敗北していた。守っていたのは慕容德ぼようとくである。


12 月、賀訥がとつの弟、賀頼盧がらいろが二万騎を率いて鄴を攻撃した。また拓跋珪より疎んじられていた北魏将の没根ぼつこんが後燕に寝返り、北魏軍を強襲。北魏軍を混乱に陥れた。




(魏書2-16)




相変わらず魏書さんは陛下の都合の悪い部分は全力で糊塗してこられますね。もっとも、列伝にはなんだかんだ書かれてるんでしょうけど。さすがにそこまで不均衡な書き方はしてない、と信じたい……いいよね、信じても? 大丈夫?


何せ筆が魏収ぎしゅうさんだからなぁ……(手厚い信頼)

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