拓跋珪14 慕容垂の死
396 年、
3月、
6 月、
皇始元年春正月,大蒐于定襄之虎山,因東幸善無北陂。三月,慕容垂來寇桑乾川。陳留公元虔先鎮平城,時徵兵未集,虔率麾下邀擊,失利死之。垂遂至平城西北,踰山結營,聞帝將至,乃築城自守。疾甚,遂遁走,死於上谷。子寶匿喪而還,至中山乃僭立。夏六月癸酉,遣將軍王建等三軍討寶廣寧太守劉亢泥,斬之,徙其部落。寶上谷太守慕容普隣,捐郡奔走。丁亥,皇太后賀氏崩。是月,葬獻明太后。
※資治通鑑掲載分
3月に入り、
この事態を耳にした拓跋珪は恐れ、逃げ出そうとしたのだが、一方で配下たちもまた拓跋虔の戦死を聞き、このまま拓跋珪についていくべきかを疑い始めた。そのため拓跋珪が逃げ出すわけにはいかなくなった。
慕容垂は略取した民衆、軍資を引いて帰国。途中で参合陂に寄り、未だ燕軍の死体が積み重なったままであるのを見、祭祀をなした。兵士らはみな嘆き悲しみ、その声は山や谷を震わせるほどだった。慕容垂もまた慟哭のあまり吐血。病をさらに重くし、平城の西北三十里のところで寝込む。慕容寶もまた魏に攻め入ろうとしていたのだが、慕容垂の病状急変を聞き引き返した。燕軍の中で北魏に逃げ込んだ者が拓跋珪に対し「慕容垂の死体が、すでに輿に載せられている」と報告した。拓跋珪は追撃をかけようとしたのだが、すでに平城が陥落していると聞き、
慕容垂は平城の西北で10日あまり寝込んだ末、更に病状が悪化。
(魏書2-14_衰亡)
魏書の大本営発表に対して司馬光がキレ散らかしてて草。資治通鑑に載る「魏王珪震怖欲走,諸部聞虔死,皆有貳心,珪不知所適。」って文これ、もしかして司馬光が独自でねじ込んだりしてない? あいつだったらやらかしかねない謎の信頼感がある……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます