拓跋珪13 参合陂
394年3月、
395年、
7月、慕容垂が
10月に入ると、慕容宝は穀物の運搬を諦めて船を焼き、逃亡に入った。11月に拓跋珪も動き出し、追撃をかける。そして
九年春三月,帝北巡。使東平公元儀屯田於河北五原,至於棝楊塞外。夏五月,田於河東。秋七月,還幸河南宮。冬十月,蠕蠕社崙等率部落西走。事具蠕蠕傳。是歲,姚萇子興僭立,殺苻登。慕容垂滅永。
十年春正月,太悉佛自長安還嶺北,上郡以西皆應之。夏五月,幸鹽池。六月,還幸河南宮。秋七月,慕容垂遣其子寶來寇五原,造舟收穀。帝遣右司馬許謙徵兵於姚興。東平公元儀徙據朔方。八月,帝親治兵於河南。九月,進師,臨河築臺告津,連旌沿河東西千里有餘。是時,陳留公元虔五萬騎在東,以絕其左,元儀五萬騎在河北,以承其後,略陽公元遵七萬騎塞其中山之路。冬十月辛未,寶燒船夜遁。十一月己卯,帝進軍濟河。乙酉夕,至參合陂。丙戌,大破之。語在寶傳。生擒其陳留王紹、魯陽王倭奴、桂林王道成、濟陰公尹國、北地王世子鍾葵、安定王世子羊兒以下文武將吏數千人,器甲輜重、軍資雜財十餘萬計。於俘虜之中擢其才識者賈彝、賈閨、晁崇等與參謀議,憲章故實。班賞大臣將校各有差。十有二月,還幸雲中之盛樂。
※資治通鑑掲載分
5月、拓跋珪が燕との対立姿勢を確立させた。
7月,
8月に拓跋珪は出陣、9月には黄河沿岸に布陣する。慕容宝が黄河を渡ろうとしたところで突風が起き、数十艘の燕の船が拓跋珪のもとに流れ込んできた。拓跋珪は鹵獲の上、船員をみな北魏に取り込んだ。
慕容宝が北魏に進出する間、慕容垂が病に冒されているのは周知の事実であった。そこで拓跋珪は中山から慕容宝のもとにやってくる使者を捕らえては、自らの手勢に「慕容垂が死亡した」と言う虚報を握らせた上で慕容宝のもとに向かわせた。燕軍の動揺は日に日に広まった。
燕軍に同行する占術師の
燕と魏とはしばらく睨み合った。慕容垂に関する虚報を受け、前線では慕容麟を推戴し反乱すべき、という声も上がり始めた。濡れ衣でこそあったが慕容宝と慕容麟とで不協和音が生じるのは当然の帰結だった。
10月に慕容宝は撤退を開始。北魏軍が追ってはこれないと高をくくり斥候の派遣を怠った。もちろんそんなことはなく、拓跋珪は凍った黄河を渡り、精鋭二万を率いて急追した。そして11月、参合陂にて燕軍を大破した。
拓跋珪はこの戦いで得た賢人を重用しようと考えたが、一方で北魏の中部大人である
12月、拓跋珪が盛樂に帰還。一方で慕容宝はリベンジをしばしば慕容垂に申し出た。ここで慕容徳が慕容垂に言う。
「参合陂の快勝で、拓跋は浮ついています。後顧の憂いを断つ上でも、奴らを今のうちに叩いておくべきでしょう」
そこで慕容垂は
(魏書2-13_暁壮)
参合陂ね……北魏側の情報がもっと克明に残ってたら、本当に面白かったでしょうに。
燕側の情報ばっかりがいっぱい残ってるのがほんに草ですの。
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