拓跋珪12 後燕対西燕

393 年、拓跋珪たくばつけいは南に出た。二月に、羖羊原こようげんを経て白樓はくろうに。三月になると西方の侯呂隣部こうりょりんぶを征伐。四月に苦水くすいにまで出、侯呂隣部を大破した。五月、白樓に帰還した。


同月、慕容垂ぼようすい慕容永ぼようえい征伐に乗り出した。六月、拓跋珪は北に戻ったが、そこに慕容永よりの使者が救援を求めてきた。そこで拓跋虔たくばつけん庾岳ゆがくに五万騎を率いさせ、黄河こうがを渡り、救援に出させた。破類拔部はるいばつ劉曜りゅうようらを国内に引き入れた。拓跋虔らは秀容しゅうように駐屯したのだが、慕容垂は構わず長子ちょうしを包囲した。七月、拓跋珪は新壇しんだんに出た。臣下とともに宴を開き、後に訓練を行った。


これより前、劉衛辰りゅうえいしんの三男の劉勃勃りゅうぼつぼつ、のちの赫連勃勃かくれんぼつぼつ叱干部しつかんぶに亡命していた。拓跋珪は何度となく赫連勃勃を出頭させるよう求めたのだが、出頭がない。そこで8月、拓跋珪は三城さんじょうに侵攻。このとき偶然叱干部の大人、叱干他斗伏しつかんたとふく曹覆そうふくを攻撃しに出向いていた。そこで拓跋珪は三城を陥落させ、叱干他斗伏の嫡男である叱干珍宝しつかんちんぽうを捕らえた。また叱干部の民を連行、帰還した。叱干他斗伏は三城陥落を聞いて慌てて帰還し、部民を奪還しようとしたのだが、追いつかない。ついには絶望し、後秦こうしんに亡命した。


九月、拓跋珪は河南宮に帰還した。


なおこの年、姚萇ようちょうが死死亡している。




八年春正月,帝南巡。二月,幸羖羊原,赴白樓。三月,車駕西征侯呂隣部。夏四月,至苦水,大破之。五月,還幸白樓。慕容垂討慕容永於長子。六月,車駕北巡。永來告急,遣陳留公元虔、將軍庾岳率騎五萬東度河救之。破類拔部帥劉曜等,徙其部落。元虔等因屯秀容,慕容垂遂圍長子。秋七月,車駕臨幸新壇。庚寅,宴羣臣,仍講武。先是,衞辰子屈丐奔薛干部,徵之不送。八月,帝南征薛干部帥太悉佛於三城,會其先出擊曹覆,帝乘虛屠其城,獲太悉佛子珍寶,徙其民而還。太悉佛聞之,來赴不及,遂奔姚興。九月,還幸河南宮。是歲,姚萇死。


(魏書2-12_暁壮)




印象としては登国改元直前に慕容永と拓跋珪が繋がってそうなんですけどねえ。そこと言明する史料はありません。あくまで「その後の動きから推測するに」でしかないんですよね。これがどうにも、口惜しい。

それにしても叱干珍宝が輝かしすぎる。

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