拓跋珪9  隙燕

391 年。2月に紐垤川ちゅうてつせんに出た。3月に拓跋儀たくばつぎ拓跋虔たくばつけんらに黜弗ちゅつふつ部を撃破させた。4月に天に向け祭祀した。


6月、慕容驎ぼようりん赤城せきじょう賀訥がとつを攻撃、捕らえた。拓跋珪たくばつけいが賀訥救援の為に動くと、慕容麟は撤収した。


7月に牛川ぎゅうせんで軍事訓練をなし、紐垤川に引き返した。慕容垂ぼようすいが使者として遣わされた拓跋觚たくばつこ後燕こうえんに抑留。解放の条件として拓跋珪に名馬をよこすよう求める。拓跋珪はそれを拒否した。西燕せいえん慕容永ぼようえいに使者を出せば、慕容永からは慕容鈞ぼようきんが返礼の使者として遣わされた。いわく、拓跋珪こそが天子となるべきである、と。


同じく7月、劉衞辰りゅうえいしんが子の劉直力鞮りゅうちょくりきてい棝楊塞こようさいより出撃させ、黑城こくじょうにまで侵攻させた。


9月、拓跋珪は五原ごげんを襲撃。陥落させた。五原城内の物資を回収のうえ紐垤川に帰還した。また棝楊塞の北に拓跋の功績を刻んだ石碑を建てた。


10月、柔然じゅうぜんを征伐。大磧だいせき南牀山なんしょうざんの麓で大破した。その地で論功行賞をなしたあと、柔然の東西両翼である匹候跋ひっこうばつ縕紇提おんこつていを破り、別動軍の屋擊于おくげきうを斬った。この辺りは『蠕蠕だだ傳』に詳しい。




六年春二月,幸紐垤川。三月,遣九原公元儀、陳留公元虔等西討黜弗部,大破之。夏四月,祠天。六月,慕容賀驎破賀訥於赤城。帝引兵救之,驎退走。秋七月壬申,講武於牛川,行還紐垤川。慕容垂止元觚而求名馬,帝絕之。乃遣使於慕容永,永使其大鴻臚慕容鈞奉表勸進尊號。其月,衞辰遣子直力鞮出棝楊塞,侵及黑城。九月,帝襲五原,屠之。收其積穀,還紐垤川。於棝楊塞北,樹碑記功。冬十月戊戌,北征蠕蠕,追之,及於大磧南牀山下,大破之,班賜從臣各有差。其東西二部主匹候跋及縕紇提,斬別帥屋擊于。事具蠕蠕傳。



※資治通鑑掲載分


1月に賀染干がせんかんが兄の賀訥を殺さんと企んだ。賀訥は抵抗。拓跋珪は後燕にも道案内を依頼した上、救援に出る。ところがその後燕将慕容麟が賀訥を攻撃。数万世帯とともに賀訥を捕らえてしまう。慕容垂の命によって帰還した慕容麟は、慕容垂に「拓跋珪が良からぬことを企んでいる、早めに叩いて傘下に入れ、やつの弟に動向を監視させるべきだ」と提案したが、慕容垂は却下した。

拓跋觚はもともと使者として後燕に派遣されていたのだが、そこを捕まえられていた。拓跋珪が慕容垂からの要求を突っぱねたところで逃亡を試みたのだが、慕容宝ぼようほうによって捕らえられる。連れ戻された拓跋觚を、しかし慕容垂は逃亡前と同じ待遇のままとした。

拓跋珪は後燕討伐を計画しながら、なおも拓跋儀を臣属のていの使者として派遣。そこを慕容垂が責める。

「臣属ならば、拓跋珪自らが来るべきであろう」

「拓跋氏の歴代の王は燕とともにしんに仕えてまいりました。ならばその立場は兄弟にも近きもの。臣が使者として詣でることに、理は失われておりませぬ」

「我が威光はあまねく四海を照らしておる。以前のままの関係でおれると思うてか?」

「燕がまともに徳も礼も修めずして無駄に兵力増強をなしてみたとて、それらは将軍らの取り扱うべきこと。臣の預かり知るところではござらぬ」

拓跋儀は帰還して慕容垂に言う。

「慕容垂は耄碌しております。太子は凡夫の上幼く、加えて慕容徳ぼようとくが自らの才気を自任しており、およそ幼き主をたてまつるとも思えませぬ。慕容垂の死後、いくらでも内乱が起こりましょう。それから動けばよろしいのです、今は動かぬほうが良い」

拓跋珪はこの発言を歓迎した。なお拓跋儀はのいとこに当たる。


(魏書2-9_仇隟)




ぼく「どの口で慕容に徳と礼がねえとかほざいてんだこいつ……?」


にしても、相変わらず外交官のやり取りはヒリヒリきますね。コレを言ってよく殺されないもんですよ……。 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る