拓跋珪7  庫莫奚

388 年 2 月、拓跋珪たくばつけいは東方を巡った。4 月に赤城せきじょうに入り、5 月に北方の庫莫こばく部討伐に出る。6 月には大破、その支配下にあった部民および家畜十万あまりを接収のうえ弱落水じゃくらくすいを渡って帰還した。この戦いにおける論功行賞が行われ、功績に応じて分配された。


7 月、庫莫部の長、庫莫奚こばくけいは敗散した部民を集めて夜に行宮ぎょうきゅうを襲撃。しかし拓跋珪は騎兵を操り、彼らを殲滅した。その後拓跋珪は赤城に帰還した。


8 月、拓跋儀たくばつぎ慕容垂ぼようすいのもとに遣わせた。慕容垂は 10 月に返礼の使者を拓跋珪のもとに派遣した。


12 月、拓跋珪は西に向かい、女水じょすい解如かいじょ部を撃破、部民や家畜十万あまりを獲得した。


この年、西秦の乞伏國仁きっぷくこくじんが死亡。弟の乞伏乾歸きっぷくけんきがあとを継いだ。




三年春二月,帝東巡。夏四月,幸東赤城。五月癸亥,北征庫莫奚。六月,大破之,獲其四部雜畜十餘萬,渡弱落水。班賞將士各有差。秋七月庚申,庫莫部帥鳩集遺散,夜犯行宮。縱騎撲討,盡殺之。其月,帝還赤城。八月,使九原公元儀使於慕容垂。冬十月,慕容垂遣使朝貢。十有二月辛卯,車駕西征,至女水,討解如部,大破之,獲男女雜畜十餘萬。是歲,乞伏國仁死,弟乾歸立,私署河南王。



※資治通鑑掲載分


庫莫渓は、もと宇文うぶん部の部民。契丹きったんと系統を同じくしていたが、慕容皝ぼようこうに打ち破られたため、松漠しょうばくに移り住んでいた。


(魏書2-7_暁壮)




拓跋珪の行動を頑張って漢人の言葉で表現しようとしてるのがマジ涙ぐましいです。いや、まぁ巡幸とは言えるかもしれませんが、移動がデフォな以上、それを中華皇帝の枠で語ってもね……。


あと、ここまで読んできて「川」の存在感が異常にヤベーことに気付かされます。確かに馬に乗る民として、川って諸々難敵よね。いや二本足の民にとっても十分ヤベーけど。北魏にとって、川は強烈に意識せざるを得ない存在なんだろうなあ、などと思うのでした。

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