拓跋珪6  劉顕

387 年に入ると、長孫嵩ちょうそんすうら功臣に、功績に応じた席次を与えた。


2月、拓跋珪たくばつけい寧川ねいせんに出た。


5月、ふたたび安同を後燕こうえんに派遣。援軍要請である。慕容垂ぼようすい慕容麟ぼようりんを派遣した。経緯は資治通鑑しじつがんに詳しい。


6月に劉顯りゅうけん馬邑ばゆうの南にて撃破、彌澤びたくまで追撃を掛けさらに攻撃。劉顕は慕容永ぼようえいのもとに逃れた。残された賀蘭がらん部の部民を、拓跋珪は自らのもとに組み込んだ。8月に帰還した。


10 月、濡源じゅげんに出た。外朝大人の王建おうけんを慕容垂のもとに派遣した。

11 月には赤城せきじょうに出た。

12 月には松漠しょうばくを巡ったあと帰還、続いて牛川ぎゅうせんに出た。




二年春正月,班賜功臣長孫嵩等七十三人各有差。二月,帝幸寧川。夏五月,遣行人安同徵兵於慕容垂,垂使子賀驎率眾來會。六月,帝親征劉顯於馬邑南,追至彌澤,大破之,顯南奔慕容永,盡收其部落。秋八月,帝至自伐顯。冬十月癸卯,幸濡源,遣外朝大人王建使於慕容垂。十一月,遂幸赤城。十有二月,巡松漠,還幸牛川。



※資治通鑑記載分

拓跋珪に張兗ちょうだが言っている。

「劉顕はこちらを滅ぼそうと目論んでこそいますが、内紛によって劉奴真りゅうどしん劉肺泥りゅうはいでいが亡命してまいりました。この辺りでやつを滅ぼしておかねば、のちの災いとなりましょう。しかし、奴は未だもって強大。単独での討伐は難しかろうと思われます。再び燕と結び、滅ぼしましょう」

一方で劉衛辰りゅうえいしんが後燕に馬を献上しようとしたところ、「劉顕に略奪された」。劉顕に略奪された。大事なことなので。ホントカナァ?

なので慕容垂は怒り、慕容楷ぼようかいや慕容麟を派遣しましたとさ。なお魏書では拓跋珪が「盡收其部落」したと書かれているが、こちらで馬・牛・羊を「千萬」(まぁ「一万近く」と読むべきだろう)を獲得、さらに八千世帯あまりを中山ちゅうざんに移し、その部落を劉顕の弟の劉可泥りゅうかでいに統治させている。


(魏書2-6_暁壮)




このあたりは司馬光しばこうが盛大に魏収をぶん殴っていますね。「おめー完全に慕容垂におんぶでだっこだったろ、なにおめー一人の功績っぽく書いてやがんだアホか」とでも言わんばかり。劉顕の馬強奪事件がすでに怪しいですし、この辺のいくつかの偽装事件だとか取り分に関する紛糾だとかが慕容と拓跋の決裂に至ったと言われても不思議ではなさそうです。


参合陂まで、あと8年。

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