拓跋珪5  叔父との戦い

10月。慕容驎ぼようりんの援軍が到着しないうちに敵軍は前進、迫ってくる。北部大人の叔孫普洛しゅくそんふらくら十三の氏族や烏丸うがん人らは劉衞辰りゅうえいしんのもとに亡命した。


拓跋珪たくばつけい弩山どざんから牛川ぎゅうせん延水えんすい代谷だいこくを経由し、高柳こうりゅうにて慕容麟と合流。拓跋窟咄たくばつくっとつを大破した。拓跋窟咄は劉衞辰のもとに逃れたが、そこで殺された。残された拓跋窟咄の勢力は、ことごとく拓跋珪に吸収された。


12月、慕容垂ぼようすいから遣使があった。拓跋珪を西單于、上谷じょうこく王に任ずる、というものであった。拓跋珪は拒否した。


同年、慕容垂ぼようすい中山ちゅうざん大燕だいえん皇帝を自称。

苻丕ふひが死亡、苻登ふとう隴東ろうとうで自立。

姚萇ようちょう長安ちょうあん大秦だいしん皇帝を自称。

慕容沖ぼようちゅうが部下に殺され、慕容永ぼようえいが自立。

以上の出来事があった。




冬十月,賀驎軍未至而寇已前逼,於是北部大人叔孫普洛等十三人及諸烏丸亡奔衞辰。帝自弩山遷幸牛川,屯于延水南,出代谷,會賀驎於高柳,大破窟咄。窟咄奔衞辰,衞辰殺之,帝悉收其眾。十二月,慕容垂遣使朝貢,奉帝西單于印綬,封上谷王。帝不納。是歲,慕容垂僭稱皇帝於中山,自號大燕。苻丕死,苻登自立於隴東。姚萇稱皇帝於長安,自號大秦。慕容沖為部下所殺。慕容永僭立。



※資治通鑑記載分


拓跋窟咄の侵攻に賀染干がせんかんが呼応、魏の北部へ攻め込んだ。叔孫普洛の逃亡は、むしろ賀染干の攻撃による。

慕容麟は賀染干の呼応を聞き、安同あんどうらを先行させる。援軍の到着が近いと知らせさせたのだ。

なおこの頃の劉衛辰は朔方さくほうに拠点を置いていた。その勢力は到底無視できず、姚萇や慕容永はそれぞれ別個に、劉衛辰へ大将軍の官位を送っている。


(魏書2-5_暁壮)




この頃の劉衛辰、拓跋珪にとっては嫌な存在だったでしょうね。親の仇にも等しい存在だけど、とは言えこの当時の拓跋珪では到底倒せない。なので微妙に外交しつつだったんでしょう。

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