夏文人  胡義周・趙逸

胡義周こぎしゅう安定あんてい臨涇りんけい県の人だ。経典史書を広く学び、中でも文章を得意とした。はじめ姚泓ようおうに仕えてその文辞を讃えられたが、後秦こうしんが滅びると赫連勃勃かくれんぼつぼつに仕えた。統万城とうまんじょうが落成すると胡義周は碑文をものし、その文辞は広く伝えられた。子の胡方回こほうかいもまた赫連勃勃に仕えた。



趙逸ちょういつ、字は思群しぐん天水てんすいの人だ。十代前の祖は趙融ちょうゆうで、かんの光祿大夫である。父は趙昌ちょうしょう石勒せきろくの時に黃門侍郎となった。


趙逸は幼少の頃にはすでに学問で名を知られ、姚興ようこうに仕え、中書侍郎を経て齊難さいなんの軍司馬となり、赫連勃勃討伐に参与した。齊難が敗れると趙逸は赫連勃勃にとらわれるも、著作郎とされた。


拓跋燾たくばつとうが統萬城を平定したときに趙逸がものした赫連勃勃を讃える文を発見。その内容があまりにも行き過ぎていると拓跋燾は怒り、言う。


「あのクソはカスだ! どうしてこうも称える意味がある! ええい、作者をここに呼べ!」


すると崔浩さいこうが進み出て、言う。


「文士のものする毀誉褒貶のたぐいは、いちいち大げさに書くものです。彼の者の誤記は、いわば漢代の大文人、揚雄ようゆう王莽おうもうを大いに称えながらも、その名声を損ねておらぬのにひとしきこと。天下に覇たる王の度量、お示しなさりませ」


それを聞き拓跋燾は趙逸の処刑を思いとどまり、魏に取り立てた。


なお趙逸の兄の趙温ちょうおん、あざな思恭しきょうもまた博学で名高かった。姚泓に仕え天水太守となるも、後秦滅亡後仇池きゅうち楊難当ようなんとうのもとに逃れた。




胡義周,安定臨涇人也。博渉經史,尤善屬文。初仕秦姚泓,為黃門侍郎,以文章著稱。泓滅,遂仕於勃勃,為秘書監。勃勃作綂萬城,義周為之銘又有『虵祠碑』諸文,頗行於世。其子方回仕勃勃,中書侍郎。


趙逸,字思群,天水人也。十世祖融,漢光祿大夫。父昌,石勒時為黃門侍郎。逸好學夙成,仕姚興,歷中書侍郎,為興將齊難軍司馬,從征勃勃。難敗,逸為勃勃所虜,拜著作郎。世祖平統萬,見逸所為文,譽勃勃太過,怒曰:此豎無道,安得為此言乎!作者誰也?其速推之。司徒崔浩進曰:文士褒貶,多過其實。彼之謬述,亦猶子雲之『美新』。皇王之道,固宜容之。世祖乃止。後仕於魏。逸兄溫,字思恭,博學有高名,仕姚泓天水太守。泓敗,沒于氐王楊難當。


(晋書130-22_文学)




晋書載記ラストは文人さんでした。崔浩が出てきて爆笑しましたが偶然です。マジで。そしてこの言い回し! うーん崔浩! って感じだ。

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