魏書 本紀

魏書2 太祖道武帝

拓跋珪1  出生

太祖たいそ道武帝どうぶてい拓跋珪たくばつけい昭成帝しょうせいてい拓跋什翼犍たくばつじゅうよくけんの嫡孫にして、獻明帝けんめいてい拓跋寔たくばつしょくの子だ。母は獻明けんめい賀皇后がこうごうである。彼女は拓跋寔の死後雲澤うんたくに身を移された。そこで眠っているとき、夢の中で天窓から燦然とした光を身に浴びた。そうして建國けんこく三四年七月七日、參合陂さんごうはの北で拓跋珪を産んだ。拓跋什翼犍は大いに喜び、群臣も口々に慶賀を伝えた。大赦がなされ、祖宗にその誕生が報告された。取り上げたものは嬰児の拓跋珪の重さが並の赤児の二倍あることに驚き、この赤子は只者ではないと実感した。


年が明けると、へその緒などを埋めた穴の上からニレの木が生え、ついには林のようになった。年幼くもすでに言葉を良くし、目には光曜があり、耳は大きく、誰もがただ者ではないと思った。


拓跋珪が六歳の頃、拓跋什翼犍が死亡。苻堅ふけんが将軍を派遣し、代国だいこくの宮廷に乗り込んでくる。ここに代国は滅亡、拓跋珪も長安ちょうあんに移されかけたが、見逃された。このあたりはのちの燕鳳えんほう伝に詳しい。苻堅の軍が撤収すると臣下らも散り散りとなった。苻堅は匈奴きょうど独孤どっこ部の劉庫仁りゅうこじん、匈奴鉄弗てっふつ部の劉衞辰りゅうえいしんに代国の地を分担で統治させた。南部大人の長孫嵩ちょうそんすう元他げんたらはことごとくが代の旧民を率い劉庫仁を頼った。拓跋珪もまた独孤部に逃れた。




太祖道武皇帝,諱珪,昭成皇帝之嫡孫,獻明皇帝之子也。母曰獻明賀皇后。初因遷徙,遊于雲澤,既而寢息,夢日出室內,寤而見光自牖屬天,歘然有感。以建國三十四年七月七日,生太祖於參合陂北,其夜復有光明。昭成大悅,羣臣稱慶,大赦,告於祖宗。保者以帝體重倍於常兒,竊獨奇怪。明年有榆生於埋胞之坎,後遂成林。弱而能言,目有光曜,廣顙大耳,眾咸異之。年六歲,昭成崩。苻堅遣將內侮,將遷帝於長安,既而獲免。語在燕鳳傳。堅軍既還,國眾離散。堅使劉庫仁、劉衞辰分攝國事。南部大人長孫嵩及元他等,盡將故民南依庫仁,帝於是轉幸獨孤部。




※資治通鑑 対応箇所


372 年三月,代の將の長孫斤ちょうそんきんが拓跋什翼犍を殺害せんと図った。世子の拓跋寔たくばつしょくが妨害に出、重症こそ負ったが長孫斤をとらえ、殺した。五月、拓跋寔は怪我が元で死んだ。七月、拓跋寔が娶っていた東部とうぶ大人たいじん賀野幹がやかんの娘が拓跋珪を産んだ。拓跋什翼犍は大赦をなした。


375 年、拓跋什翼犍が劉衛辰を攻めたところ劉衛辰は前秦の苻堅に救援を依頼。一方の拓跋什翼犍は劉庫仁に救援を依頼したが、大敗。その中にあって拓跋什翼犍は病を得た。

拓跋什翼犍は嫡子を喪って以来、後継者を未だ決めきれずにいた。一方で後継者が確定されないことは後継者候補の不安、恨みを買う。やがて長庶子の拓跋寔君たくばつしょくくんが宗族よりのそそのかしにあい、拓跋什翼犍を始めとする宗族を皆殺しとした。拓跋珪の母は拓跋珪を連れ、賀蘭部のもとに逃れた。

苻堅は代の士大夫である燕鳳を召喚、代で起こった事件について問う。聞いた話に怒った苻堅は拓跋寔君を捕らえ、車裂きとした。あわせて拓跋珪を長安に召喚しようとしたが、燕鳳が「今、へたに代王の後継者を特別扱いすると劉庫仁と劉衛辰の対立が激化します」と諌めたため、取り下げられた。




(魏書2-1_衰亡)




はい、というわけでここからは北魏を追います。ここで北魏の記録がわりとアレなのを踏まえ、魏書と一緒に資治通鑑も追って、北魏周りの歴史を少しでも見えやすくしたいと思います。


とりあえず、あれやね。


拓跋珪、初手から難易度インフェルノ。よくこっから覇権握りましたわ……神かな?

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