第4話 死に損ね左之助

 新選組副長助勤で、十番隊長をつとめていたのが、原田左之助さのすけである。新選組といえば、多摩の喧嘩剣法といわれる天然理心流の剣客が多いという印象だが、実際には槍をつかう者が多かった。

 その筆頭が、種田たねだそう術の達人、原田左之助その人であろう。

 この左之助には、「死にそこね左之助」という綽名あだながあった。

 生まれ故郷の伊予の松山で、武家の若党をしていた頃、左之助は目上の武士と喧嘩した。

 武士は軽輩の左之助をあなどって、ののしった。

「ふんっ、小癪こしゃくな。そなたのような若造と言い争ってもつまらぬわ。所詮、切腹の作法も知らぬような下司げす野郎ではないか」

 これを聞いた左之助は、憤然、素っ裸になり、

「侍としてのわが覚悟、見るがよい」

 と叫ぶや、脇差を抜いて左腹から右へかけて、一文字にひいた。左之助の腹部からたちまち鮮血が噴く。

 喧嘩相手の武士の顔がみるみる蒼褪あおざめ、逃げ腰となった。

 左之助が啖呵たんかを切る。

「おらおら、待つんだよ。十文字腹を切って、腸をつかみ出して、存分に食らわせてやるからよ」

 騒ぎを聞きつけた家中の者が、寄ってたかって左之助をなだめ、ようやくこの切腹劇は幕を閉じたが、以来、「死に損ねの左之助」という異名いみょうがついてまわった。

 新選組に入隊した左之助は、得意の槍をふるい、数々の修羅場をふんだ。

 花街での酒席では、よく切腹の痕のある腹を出して、ぺちゃぺちゃ叩きながら、「俺の腹ァ、金物の味を知ってるんだぜ」

 と、威張った。

 ある日、左之助は京の刀屋で一振の剣を店主から見せられた。村正だという。

 左之助が手にとってかすと、先反さきぞりで平肉ひらにくがつかず、にえこそみごとだが妖気のたつほどに全体の感じがするどい。

 たしかに村正に相違ない。滅多にお目にかかれない業物わざものであったが、村正は徳川家に祟る不吉な太刀として、外様とざまの諸侯でさえ遠慮して所蔵していない。

 そのような妖剣を佐幕派の新選組隊士が所持していいものか、左之助は一瞬迷ったが、欲しいものは欲しい。

「亭主、値はいかほどか」

 左之助が問うと、意外なほど安い。

 亭主が言う。

「物打ちから一寸ばかりのところに、傷がありまっしゃろ」

「ふむ、このしのぎの傷か」

「へえ、そこの傷は剣相でいうと、凶穴というらしく、不慮に命を失うそうで……」

益体やくたいもない。俺は死に損ねの左之助といわれる男よ。新選組でも幾多の刀槍の修羅場をかいくぐり、不死身とすら言われておる。この村正、貰っておくぞ」

 その後の慶応四年、戊辰ぼしん戦争がはじまると、新選組は旧幕府軍に従い転戦したが、初戦の鳥羽伏見での敗戦後、散り散りとなる。

 江戸へ戻った左之助は、局長の近藤勇と意見の相違をきたし、喧嘩別れ同然にたもとを分かった。

 そこで左之助は永倉新八とともに、旗本の芳賀はが宜道ぎどうを隊長に靖兵隊せいへいたいを組織し、会津へ向かうことになった。

 しかし、その途次、何を思ったのか、左之助は一人江戸へと引き返し、上野の山へと飛び込んだ。幕臣らで結成する彰義隊しょうぎたいに参加したのである。

 明治元年五月十七日、左之助は大身槍をかざして薩摩軍を迎え撃った。二、三人、串刺しにしたところで、どうしたわけか、槍がけら首から折れた。

 目の前から薩摩軍が猿叫えんきょうをあげて突進してくる。

 左之助は腰の村正を鞘走らせて、えた。

「死に損ねの左之助、ここにあり!」

 その瞬間、左之助の眉間を一発の銃弾が撃ち抜いた。 

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