第2話 逃げの小五郎
「月さま、雨が……」
「春雨じゃ、濡れてまいろう」
という名台詞で知られる新国劇『月形半平太』のモデルとなった人物は、明治維新の元勲である木戸
三味の音が流れる京都
その料亭から、一人の武士がふらりと出てきた。
酔い
途中、商人風の男がすれ違いざま、武士の横顔を盗み見た。二、三歩そのまま歩いて振り向き、通り過ぎる武士の背中をじっと見つめる。
「あのひょろ高いのは、たしか長州の……そうだ、桂小五郎だ。間違いない」
商人風の男は、新選組監察方の山崎
監察方とは情報探索、つまり密偵をもっぱらの仕事とする。
山崎は小五郎の跡をつけた。
すると木屋町通りに入るや、小五郎の姿は石畳みの路地の奥の料亭へと消えた。そこには、
ただちに、山崎は
「近藤先生、長州の桂小五郎がいま木屋町通り、幾松のところに一人でおります。
新選組局長の近藤勇は、桂小五郎と聞いて眉根を寄せた。小五郎は近藤がもっとも刃を交えたくない男であった。
というのも、小五郎は江戸三大道場のひとつ「練兵館」で剣豪
しかも、練兵館の塾頭を五年間もつとめている。
一度、近藤の
小五郎の腕に匹敵するのは、沖田総司、永倉新八、斎藤一の三人であろうが、そのときは全員、揃いも揃って京都市中の見廻りに出払っていた。
――いたしかたあるまい。
やむなく近藤は、愛刀の
山崎の先導で木屋町通りの料亭に着くや、近藤は声を張りあげた。
「御用改めである。新選組局長近藤勇、まかり通る」
「ひえーっ、ご無体なことを。しばし、いましばらく、待っておくれやす」
店の者の制止する声など
すると――。
黒漆の大きな
近藤が問い
「そなた、名はなんと申す」
「へえ、うちは幾松どす。で、そちらさんは、どなたはんどす?」
「新選組局長の近藤である。ここに、長州藩士、桂小五郎がおるであろう。隠すとためにならぬぞ」
「おやおや、近藤さま。桂小五郎さまなるお方なんぞ、うちは知りまへんえ。よそのお店と間違うて……」
その言葉をさえぎって、近藤が低い声を響かせる。
「とぼけるでない。そなたのうしろにある長持はなんじゃ。怪しい。改めさせてもらうぞ」
「待っておくれやす」
名妓幾松の厳しくも凛然たる声に、近藤はたじろいだ。
「その前にひと言、言わせてもらいますえ。この座敷は、うちら芸妓にとって女の戦さ場。いわば真剣勝負の場どす。そやさかい、もし、長持の中に桂小五郎なるお方がおられた場合は、嘘をついたうちの首を
「ふふっ、面白い。それがしのあてがはずれたら、潔く切腹しよう」
「約束どすえ」
「武士に二言はないっ」
近藤が腰の虎徹の
「むっ」
近藤は慄然とした。
長持に手をかけ、
近藤はおのれの
「ま、考えてみれば、花街で太刀を抜くのも野暮よ。幾松どのの覚悟にも深く感服仕った。今宵は引き分けとさせていただく」
このとき、桂小五郎は長持の中で、抜き身の村正を構えていた。
翌年の元治元年、禁門の変が勃発し、長州は幕府軍に敗れ、朝敵となった。お尋ね者となった桂小五郎は、乞食や町人に身をやつして、新選組や見廻組の取り締まりをかいくぐって難を逃れた。
これが逃げの小五郎といわれる所以である。
結果、桂小五郎こと木戸孝允は、死屍累々となった討幕派志士の中で奇跡的に生き残り、西郷隆盛、大久保利通とともに維新回天の大立者となる。幾松は孝允の妻となり、木戸松子と名乗った。
なお、木戸孝允の愛刀は、もっぱら備前
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