第8話 二つの恋バナと失恋
基はしばらくの間、顔を両腕の中にうずめていた。泣いているのかそうでないのかは分からない。
葵はそのまま何も言葉をかけずに甘くなったコーヒーを少しずつ飲んで、ロール型の細長いクッキーに手を伸ばす。
「……ヤバ、これ超イケるよ基!ランドグシャ最高だね!って……これは高級なヤツだよ……勝手に食べちゃってお母さん怒るかな……ドケチなんだから……」
基には聞こえていないのだろうか。
「基?これ、すっごい舌触り、てか食感ていうの?がレベチ段チだよ?食べてみてよ!缶入りのヤツから貰っちゃったヤツなんだよ、ほらぁ……」
何かマズいことを言ってしまったのだろうか、と、葵は焦った。
「……葵……」
「ん?何?」
やはり缶入りクッキーには反応するか、と喜んだ葵だ。まあ、缶入りでも安価な物はあるけどね、とも思うが敢えて言わない。
しかし、その次の言葉に葵は持っていたコーヒーカップとクッキーを落としそうになる。
「……俺……失恋したんだ……早瀬に」
「!?」
基は顔を上げずに言った。
言葉が空間を通り抜け、宙を舞った。
失恋?基が!?
……早瀬、(って誰?)に……?
「え……どういうこと……?失恋、って……」
失恋は一年前に葵も経験した。普通とは異なる失恋だと思う。二重に傷付いた。好きな人の気持ちや好意が自分のそれとは同じ意味では与えて貰えないこと……返ってこないこと。小学生なのに将来を考えたくはないと思ってしまったほどだった。
早瀬、ってどの早瀬さん?僕の知っている子かな、と首をかしげた。
「失恋かぁ……それは悲しいね……でもさ、基ならもっといい子が現れるよ。その子よりも可愛い子とかさ、性格のいい子とかさ。基はモテるでしょう?バレンタインデーだって基にチョコをあげたい子、結構いたじゃん」
(今年は全部お断りしてたけどさ。好みの子からしか受け取りたくなかったのかと思ったら、なんだ、好きな子がいたんだ……)
基がガバ、と顔をあげた。涙は消えている。
「違う。違うんだ。女にモテても困るんだ。違うんだよ……早瀬はあの早瀬亨なんだ」
基の顔色が青ざめているように見えた。
「……え」
(早瀬?ってあの……?)
「だから、さっきすれ違った」
「え……?」
人間は衝撃的な事実を目の当たりにすると、すんなりとは受け入れられないらしい。
「……俺は早瀬が好きだ……ったんだよ」
(過去形になってる?)
ようやく葵の頭に入って来たらしい。
そこに気が付いて、やっと基が陸上部の早瀬亨に好意を抱いていたと分かった。
思い返してみれば、なんとなく思い当たるフシがある。
あのカツサンドもそうだ。早瀬の大好物だと後から知った葵だったが、基はもしかしたら、最初から知っていたのかもしれない……。
「……基が……あの早瀬っちを……え、それって……?」
(男の子が好きだ、ってこと?)
葵と基はお互いに見つめ合ったまま、動けずにいる。
基は葵がどんな反応を示すのかが怖いと思っていた。同級生たちと同じように、気持ち悪い!信じられない!理解出来ない!と言われてしまうかもしれない……。
しかし、葵はひと言も話さない。呆れかえっているのだろうか。
「も、もと……基……」
口を開いたと同時に、葵はぼたぼたと涙を流し始めた。
「え、な、なん……で」
ぽろぽろなどと呼べる量ではない。ぼたぼたと流れ落ちる涙を、拭おうとしない葵に基はギョッとした。
(なん……だよ。そんなに泣くほど俺が早瀬を好きだったことがショックだったのかよ……)
葵がいきなりソファから立ち上がり、向かい側に座っていた基の横へと移動した。
「基いぃ……っ!」
そう言い放つとビクッと身構えた基を、泣きながら飛びつくようにして横から身体を抱きしめる。座高の高さに差があるので、基のウエストの位置に両手が回った。
「ちょ、葵?」
わあわあ泣きながら、葵が言葉にならない言葉を伝えようとするのだった。
「もと、い、ごめ……僕、基に、ひど、酷いこと……っ、僕、は全然、し、知らな……で、ごめ、」
ごめん、と言われた意味が最初は分からなかった。そういえば。葵からあのマネージャーの話を聞いたのだった……意味が分かると基も悲しいのと嬉しいのごちゃ混ぜに、涙ぐんでしまう。葵が早瀬の彼女の話をしたことを謝っている。それは彼を好きであることを受け止めてくれたのだ、と感じたのだ。
「なんでお前が謝るんだ……いいんだ。俺は誰にも話してないんだから……誰も知らなかったんだから。葵が知るわけない。何も泣かなくても」
(ちょっと、泣きたいのはこっちだぞ?)
なかなか泣き止まず、ぐすぐすとインターバルを入れて、ズズーっと鼻水をすすり、基を横抱きにした態勢を崩そうとしない。いつもと違っている。変だ。
(どうしたんだ……こんな葵は初めて見るような……?)
葵の涙にはたくさんの理由があった。基が自分と同じく男の子が好き。本当だろうか。早瀬に失恋したという意味は……?
「基いぃぃ……っく、っ。ぼ、僕、ねっ、ぼ僕もねっ……」
「……うん?」
基に顔をうずめたまま、泣きながら言葉を絞り出そうとしている葵に、失恋して泣きたいのはこっちだ、と言いたいがこの自分の想いを肯定してくれた方が嬉しいことの方が勝り、ホッとして肩の力が抜けている基だった。
「僕も……なんだよぉ……」
「は?何がだよ……?」
「……僕はね……峰岸くんが……」
そう言いかけて、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上げて、基の顔を見上げた。
(うわ、すげえ顔だな葵!)
近年まれに見る汚さ一番の顔だった。葵の顔は目鼻立ちがはっきりしているせいか、酷い顔の方が際だって、『峰岸くん』が耳に入って来ない。
「……基も……女の子になりたかったの……?」
葵が突然、突拍子もない質問を投げた。
「は?何言ってんだお前?」
「……えっ」
横抱きにした態勢からすすす、と身体を引き剥がし隣に落ち着くと、もう一度基の顔を見上げる。
「違うの……?だって、早瀬が好きだ、って……?」
「それがなんで俺が女になりたいなんてなるんだよ」
基は葵にテーブルの上にあるティッシュケースを渡すと、すっかり冷めてしまったコーヒーに口をつけた。冷めても香りが変わっていないことに感動した自分に感動する。心のどこかが軽くなっていたのだ。
「だって‥…僕とおんなじで男の子が好きだったんでしょう……?」
基は持っていたコーヒーカップをもう少しで床に落としそうになった。ガチャン、とすんでのところでテーブルの上に置くことが叶った。
「な、なんて言った?今?」
「……僕とおんなじで、男の子が好……き?」
「葵?お前、自分が何言ってるか分かってるか?」
ヂーン、と鼻をかんで、「ちょっと待ってて。顔を洗って来るね」と洗面所に消えた葵をただ呆然として眺めているだけな基だった。
(は?何がどうなってるんだ……?葵が俺と同じ?ん?あれ、違うのか?女になりたいとか言ってなかったか……?)
葵は葵で平静さが保てず、もはや基の失恋などは頭から消え去ってしまっている。
(マジ?マジなの……?基も僕と同じ?って……?でも、女の子になりたいとかじゃない?って……?)
ぐるぐると基の言葉が頭の中で回っている。それならば、葵は自分のことについても話せるかもしれない、と嬉しくなる。今まで誰にも相談どころか恋バナのこ、の字さえ喉の辺りでつかえて話など全く出来なかったのだ。
急いで顔を洗いリビングへ戻ると基が難しい顔をして待っていた。
「なあ、葵」
「ねっ、基!」
同時に言葉を発して二人とも口ごもる。
「……なんだよ……」
「……基こそ。何?」
葵は初めて自分の恋バナが出来そうだとウズウズしている。先程の涙とは違う涙があふれてしまうかもしれない……嬉しさのあまり。
もう一度基の横に座り、今度は少しだけ距離を置く。基はコーヒーを飲みながら、寛いでいるように見えた。
「お前さ……さっき女になりたいのか、って俺に聞いたよな?」
(聞き間違いじゃないよな?)
「あ、うん。言ったよ。基は……違うんだ?」
「葵はそうなのか?」
葵は黙ってコクン、と首を縦に振る。
「……そっか……俺は早瀬が好きだったけど、女になりたいわけじゃないんだ」
「ぼ、僕はね、峰岸くんが好きだったの!失恋しちゃったけど、峰岸くんに彼女が出来た時、ね?僕はなんで男の子なんだろう、って思ったんだよ……なんで女の子じゃないのかな、って……まさか、基も男の子が好きだったなんて……っ」
「俺だってまさかお前も……お前が……」
「信じられないと思うけど、僕、本当に峰岸くんの彼女になりたかったの」
頬を赤く染めて早口でまくし立てる葵の顔をじっと見つめると、顔を洗ったせいなのか、すっきりした表情を浮かべている。信じられない……葵が女になりたい?峰岸が好き?彼女……?
「峰岸……?て、まさか、ミニバスやってたアイツか?」
「そう!あの渋くて格好いい子!私立中に行っちゃったけど……」
渋くて格好いい……?基は首を捻った。そうだろうか?
「早瀬が昔ミニバスやってた時に試合を見に行った覚えがあるけど……普段と試合の別人疑惑があった奴だよな?」
格好いいか?とは口に出せない。葵がキラキラと輝いているような顔をしているのだ。失恋したという割には、そんな表情で話せることが基には考えられない。しかし、葵が女に……。
「そうなんだよねぇ……普段は大人しそうで優しそうなんだけど、試合が始まるともう別の人みたいに暴れまくって、格好よくって!渋くってさあ……大好きだったなぁ……」
(大好きだった?渋い、という意味がいまいち理解出来ないな。確か陰では『オッサン』と呼ばれてたし……もしかしたら葵はタレントで見かける『オカマ』というヤツなんだろうか?)
「基は早瀬っちのどこに惹かれたの?」
「へっ」
そんなことを聞かれるとは思わなかった基だ。みるみるうちに顔が火照って来る。
「あれ、珍しい基が赤面っ」
「うるさい!おま、お前、それよりもお前……女になりたい、って大問題じゃないか!」
同じ男子を好きになったのに、
基は混乱していた。同性を好きになる点は同じであるのに。
葵は冷たくなったコーヒーを飲み干すと、いつになく真剣な面差しで基を見る。もう、泣き顔にはならなかった。
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