第7話 基の涙
「ねぇ?基、気付いてた?」
基が調理実習室から出て来たところで葵が待ち構えていた。
早瀬に彼女が出来たと言っている。それは例の二年のマネージャーだと。
「あー……ヤケに早瀬と一緒にいるなとは……」
基はあの先輩か、と思い返した。マネージャーとして一年生の面倒を見ているのかと思っていた。夏休み前に三年のマネージャーも部員と共に引退したので、今では彼女一人で全て取り仕切っていると早瀬が話していた。
基は、何故か大切な何かをもぎ取られた感じがした。
「やっぱ、ちょっと近すぎとか仲よさそうとかさぁ、あったよね?」
「ああ……うん、そうかもな……」
葵の言葉に反応してはいるが、心がざわついて頭の中には何も入って来ない。
「基?部活が終わったんなら帰ろうよ」
「あ、そうだな……」
おかしい。まるで雲の上を歩いていいるかのようで、感覚がない。
気持ちの置きどころがない。
驚きなのか、ショックなのか。
あの早瀬に彼女……しかもあのマネージャーが……。
基の中で、何かが崩れた。喪失感と虚無感に襲われた。
葵がそのことに気付くまで、約二ヶ月を要した。
基は元々活発とは言えない性質だ。背は高いが運動はあまり好まないので筋肉もあまり付いていない。ひょろ長といった具合で、口数が少なく感情をあまり表に出さない。それよりも、きゅっと結ばれた口が若干への字に見えて、仏頂面寄りのポーカーフェイスといったところだろうか。
基は体育祭が近付くと、部活動を休みがちになった。秋になり、文化祭の準備としてクラス単位で行動するようになると、休部届けを出して、調理実習室にも近寄らなくなった。
「基、今日も部活に出ないの?」
葵が薄い鞄を肩に掛けながら、基のクラスまでやって来た。
「お前のクラスは準備とか終わったのかよ?俺は今日はこのまま帰るけど……部活は文化祭が終わるまで休むことにしてある」
一年生なので、初めての文化祭にあたり計画的に準備のスケジュールを組むことが難しい。
「うん。僕らのクラスは展示物を貼るだけだから、ボードが借りられるまではもう仕事はないんだって。今ね、展示物を作っている班の子たちが大忙しなだけ」
「お前はなんの班なんだよ」
「えっ、それ聞いちゃう?当日のお楽しみに取っといてよ。あ、じゃあ僕も基のクラスのこと、聞けないや」
普通はここで『ばーか』と基の返しが来るのが常である。
「……基……?」
「あ?お前も帰るのか?」
やはり何かがおかしい、と葵は思った。赤ん坊の頃から近距離で生きて来た、ある種の勘が働いている。
「帰るけど……。ねえ今日さ、ウチに来ない?楓が
厳さん家、とは、葵と基の母方の祖父宅で、二人の家の中間地点に建っている。僅か数分の距離だ。
「厳さん家でお泊まりって……泊まる意味あんのかよ」
「なんかねえ、お爺ちゃんちにお泊まりってのがしてみたいんだって。そういえば、僕んちは田舎のお爺ちゃんちにお泊まりってしたことないもんね。基は武市おじさんの実家に泊まったこと、ある?僕はお父さんの実家の本橋の家はなんだか敷居が高くってさ……従兄弟もちょっとカラーが違う世界っての?みたいなんだよねぇ」
「カラーか……まあ、親父のウチはウチとそんなに変わらないと思うけど……俺もあんまり行かないかもな……」
「ふふ。普通はお母さんの実家って言うのに、僕らは逆なんだよね。お父さんの方が婿だから」
「そうだな……お袋が『実家に帰る』って言っても厳さん家だから、目の前だしな」
二人は自分たちが従兄弟たちと少し違う恋愛対象を持っていると自覚をしてからは、あまり親戚の者とは話をしないように用心していたのであった。勿論、お互いの初恋話については禁句に近い。
「どうする?来る?おやつの準備しておくからさ」
「……うん、行くかな……」
歯切れの悪い基を、葵は心配していた。
校門をくぐる前に、陸上部員たちがランニングをしているところに出くわした。
本格的な部活の前のウォーミングアップを兼ねた、校舎周辺を回る外周と呼ばれるランニングだった。
校庭の入り口には例のマネージャーが待機している。
部員たちの数人が、早瀬に何かを話しかけながら、小突いたりしている。先輩だろうか。からかわれているらしかった。
(どうせあのマネージャーのこと、言われてんだろうな……)
基は諦められたはず、吹っ切れたはず、と自分に言い聞かせていた。
ふと、やるせない思いが湧き上がる。自分はこの先、異性愛者を好きになる度にこんな思いを重ねなくてはならないのだろうか……?ずっと……?
中学一年の基には、やりきれない気持ちと切ない気持ちとがごちゃ混ぜになって、自分の言葉では言い表すことが出来ない。
振り返った先には、校庭に入った陸上部員たちが列を成してのランニングからばらけて、それぞれの持ち場へと散っていた。早瀬はマネージャーと何か打ち合わせでもあるのだろう、他の部員たちと共に彼女を囲んでノートを覗き込んでいた。
不意に基の目から、雫がこぼれ落ちた。本人には自覚がなかった。
「も……基……?」
慌てた葵に声をかけられて、基はハッ、と泣いている自分に気付く。
この涙は何なのだろう……自分でも、訳が分からずに不思議な感覚である。
「あ、何……」
手で涙を拭って、葵を見た。いつもよりも頼りなさそうな顔をしている。心配をしてくれていることが良く分かる。
「早く僕んちに行こう」
葵はそれ以上、何も言わなかった。
基の涙を見なかった筈はない。それに触れないでいてくれる葵が、いつもとは違い少し不安になった。
(もしかしたら、葵は何かに気付いているのかもな……俺も自分で自分がワケ分からない時があるもんな)
もうこれ以上、葵に隠しておくことは難しいかもしれない……。
基は、葵にだけは打ち明けてもいい、と帰りの道すがら考えて、そう腹を決めた。
そう思うくらいに苦しかった。葵は
今まで通りの関係ではいられないかもしれない……その時はその時考えよう。そう心に決めて、帰宅後直ぐに葵の家に向かった。
「基、これ見て!スーパーのコーナーに新しく入ってたんだよ!」
葵が基が好きなコーヒーのドリップオンタイプで、個別包装になっている小箱を差し出した。
「……え、バラエティパックじゃなくて、単品で箱があったのか?」
「うん。基はこの紫色のやつが一番好きでしょ?やっぱ人気あるんじゃない?これと黒いやつが単品で箱になってたよ」
「おー!それは嬉しい……俺、これを買うためにバラエティパックを買うのが辛かったんだよな」
「前にそれ聞いたからさ。これ飲もうよ。ねえ、このコーヒーに合うおやつ何がいいかなあ……てか、何があるかな?ちょっと見てくるね」
「あれ、松乃おばさんは?」
「厳さん家に遊びに行ったよ。楓がお泊まりだから、心配なんじゃない?」
「……カップラーメンが出来る三分の距離で何が心配なんだよ……」
「ねー?どうせならお母さんもお泊まりしちゃえばいいのにねえ?」
「……意味分かんねぇ……あ、俺、おやつはいいよ。葵が食べるだけ用意すればいいからな」
葵が信じられない、という顔をして、振り返って基を見た。
「え……空茶って胃に悪いって聞くからさ、コーヒーでも同じじゃないの?何か口に入れた方がいいと思うよ……」
基はいつもブラックで飲み、合わせるおやつは少しくどいくらい甘みがあるものを選んでいた。
(やっぱいつもと違うんだ……)
葵が心配していたのは体調の方だった。
「はい。頂き物のクッキーがあったから。少し貰っちゃった。コーヒー、大丈夫かな。お湯の注ぎ方がめっちゃムズいねえ」
「……あ、有難う……」
(有難う?今、有難うって言った?やっぱどこかおかしい)
基はコーヒーカップを取ると、香りを嗅いでから一口飲んだ。
「……旨い……」
コーヒーがこんなに美味しかっただろうか。香りがこんなに自分をホッとさせるなんて、今までに感じたことなどあっただろうか?
これが大人になる、ということか……?それとも、単に好みが変わっただけなのか……?
コーヒーの香りが再び基の涙腺を緩ませる。
(……俺、やっぱりどこかおかしいんだろうか……?)
黙り込んで涙ぐむ基に、葵はどう言葉をかけてよいやら分からずに、一緒に黙ってコーヒーを飲んだ。
「ゲッ、間違ってブラックで飲んじゃった!にっがーっ!」
葵は基が気になり過ぎて、自分のカップに砂糖を入れ忘れていた。
慌ててキッチンへ行き、甘くしてから一口すすって「おー、これだよ!これなら飲めるぅ」とリビングへ戻った。
「基さあ、このコーヒーって激苦じゃない?濃すぎない?よくこんなのブラックで飲めるねえ」
涙ぐみながら普通に飲んでいる基は、「え……」としか返さない。
ソファにどさっと深く座ると、葵は基の手にしているカップを取って、ローテーブルの上に静かに置いた。
珍しく、基はされるがままである。
『バカ、おま、何すんだよ!』
普段ならばこう叫びカップを葵からもぎ取る反撃に出る。そしてコーヒーを床にこぼすことだろう。
「……基さあ、僕に話すことがあるんじゃないの?もういい加減、話してくれてもいいんじゃない?」
基がいつもの仏頂面とは違う、呆けた顔をしている。
「体の調子でも悪いの?琴子おばさんが最近基の食事が進まないって言ってたよ?どっか変なの?」
「……だから嫌なんだよ……」
「えっ、何が?」
基は背中を丸めて両腕を交差させて、その上に頭を乗せて顔をうずめた。
この杉崎家三軒は距離的にも精神的にも近すぎる。隠し事や秘密などは持てそうにない。基は家でも学校でも自分の居場所が全く無い状態だと思っていた。
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