第3話 基の異変
初めての期末テストが終わり、後は楽しい夏休みを心待ちにする日々が待っている。はずである。
テストの答案用紙が返されるとか、成績表が渡され、夏休みの宿題が出され、呼び出され登校があるなどの一連の問題はもちろん頭からは除外されている。
部活動と無縁の葵は、妹の楓と夏休みのスケジュール調整に余念がない。
基は所属する料理研究部が夏場は特に活動を制限されているらしく、あまり頻繁に登校をしなくても良いそうだ。部費や予算の都合もあるので、休み中は各々の家庭で精進せよ、との顧問教師からのお達しが出ている。
「基、夏休みは遊べそう?」
葵がカレンダーを眺めながら、アイスクリームを基に渡そうとした。
「……」
「……基?アイス、とけちゃうよ?」
アイスクリームのカップを目の前に差し出され、基はハッ、として「あ、サンキュ」と受け取った。が、そのままカップをローテーブルの上に置く。
「食べないの?もしかして、お腹壊してんの?」
いつもならば「バカヤロウ!んなワケあるかよ」とかが返ってくる。普通では。実際に図星であっても。
「あ……いや、違うけども」
「は……え、基?」
(ちょ、いつもの基じゃないじゃん!)
基はテーブルに置いたバニラアイスを持つと、葵が動揺してまだ渡していなかったスプーンを受け取って、心ここにあらずという雰囲気でモソモソと食べ始めた。
(うわぁ……基が「いただきます」も言わないで食べたよ……!しかも何、その食べ方?それ、アイスだよ?何を食べてるか分かってないの?)
アイスを一口食べてはスプーンをカップに置き、少し間を開けて再びスプーンでアイスを掬うようにして口へ運んでいる。当然、アイスは液体化が早くなって、最後は完全に液体になった。
葵は自分のアイスがそうならないように、横目で基の様子を見ながら急いで口へ入れた。食べたアイスの味が分からないくらい、真横にいるいつもと明らかに違う従兄弟に面食らっていた。
「基、なんか変じゃない?」
「……は?……何、が……」
残った液体化したアイスを飲み干して、基は葵を見た。見たとは言え、はっきり意志を持って見ているとは限らない。
(うっわ、なんでこんな時にお母さんが居ないんだよ!それとなーく当たり障りなーく聞いてもらえるのにい)
今日は土曜日だ。小学生の頃は隔週土曜が学校が休日扱いであったが、中学生になる頃には毎週土曜が休みになっていた。この頃からゆとり教育のしわ寄せが各自、各家庭へと押し寄せることとなる。
自宅での個人での学校外の体験学習や活動に、手探り状態ながらも数年後の受験に向かって親などは躍起になっていた。もちろん、全て学校任せの親達もいた。
母親と妹の楓は夏休み中の体験学習や親子で参加するイベント情報の資料集めに出掛けていた。ネットで情報収集が出来る父親は社長業が忙しく、あてにならない。兄の茂生は参考書と過去問題集を同じ受験生の基の兄、始と一緒に買うと言って朝早く出掛けて行った。それぞれの志望校が異なるらしい。
葵はなんて話を切り出そうとあれこれ頭を巡らせたが、一向に何も言葉が出て来ない。とけたバニラアイスは甘ったるくなり、口の中に甘さが残っている。
「……何か、飲む?冷たいヤツ?
絶対、こんな基は見たことがない、おかしい。自分も変かもと、葵はいつもとは違う自分の言葉にも軽く動揺していた。
「……ウーロン茶が飲みたい。温かくても冷たくてもどっちでもいい」
「ウチ、基んちみたいにウーロン茶の茶葉無いから。冷たいペットボトルのしか無いよ」
「……うん」
(……うん?きっみわっるー!)
冷蔵庫に入っていたペットボトルをそのまま渡すと、基はぼーっとしながらも口を付けた。
「……はぁ……」
「何、そのため息」
「……ため息くらい誰でも出るだろ……」
(いやっ、だから、その受け答えが違くてさあ……)
と思っても口に出せないムードの基である。
葵は基が何か悩みでもあるのか?と、自分と同じく考える問題が存在するのかも?と初めて思うのであった。
母親と妹が居ない空間はとても静かだ。葵はさて、お昼ご飯はどうするか、基もどうすればいいのか、と考えたところで、基がふと呟いた。
「……お前、なんか悩む時ってあるのか……?なさそうに見えるけど」
「はぁっ!? 何、それ!!あるに決まってるじゃん!!」
ギネスブックに申請するにはどうすれば証明出来るのか、と考えるくらいに小五の時のバレンタインデーの日を境に今でも悩んでいる。なんて言えない葵だ。
そんなことを基に話せば根掘り葉掘り聞かれる、問い詰められるに違いない。今、自分もそれをしたいと思っていても、出来ない。自分にも触れられたくはない部分があるからだ。
基は明らかに何か悩んでいるらしい。それを分かってもらいたいのだろうか。従兄弟で、幼なじみで、ずっと一緒に遊んでつるんで来た。けれども、二人の間で悩みを打ち明けることなどは十三年の間、今まで一度も無かった。
「まあ……そうだな。葵でもあるよな……」
「あったり前でしょー!僕にだってあるよ、それぐらい」
(何か悩んでんの、って聞いた方がいいのかな……。でも、それ言っちゃったら?僕の悩みも突っ込まれちゃうかな……)
「どうしたんだよ、基?
矛先を兄弟に向けてみる。
「兄貴……?そう言えば、姿が見えなかったな」
「始兄なら
「へえ。知らなかった」
(兄弟ゲンカじゃないんだ)
基の身長は学年でもずば抜けて高い。小学生で既に百七十センチ近くあった。中学へ入学してから数ヶ月しか経っていないが、確実に伸びている。ソファに座ると上半身の長さが違う。
現にうーん、と両手を挙げて伸びをした基の腕がソファからはみ出すと、また長くなったように思える。
(僕の一年間の成長と基の半年間が同じなんだよねぇ……
一番低い琴子も百七十センチ近くあり、もう少しで基が琴子を抜かすらしいと母親の
「あ、ねえ、琴子おばさんは家に居る?」
こちらは皆が総出で居ない。あわよくば、お昼ご飯にお邪魔させてもらおうとの魂胆だ。
「え?おふくろ……?どうだろ。俺、鍵を持たされたから……居ないかもな」
二軒は五分もかからない距離なので、基が鍵を持たされることはまず無い。
「そっかぁ……じゃあ、出掛けちゃったかもね」
「かもな。……ん?そうか。昼飯だな」
基は自分たちの昼食に気が付いた。
「うん、そうなんだよねえ……基はどうする?こっちでカップ麺でも食べとく?お母さんは全く僕のお昼なんか頭になかったみたい。何にも言わなかったし、冷蔵庫にも何にもなくてさあ、悲しみで涙がちょちょ切れちゃうよ」
「あー……。俺んち、何かあったかな……食パンがまだあったな。葵、ちょっとスーパーまで付き合え。サンドイッチなら直ぐ作れるから、俺んちに来いよ」
基はジーンズのポケットから鍵を取り出すと指でくるくると回し始めた。先ほどのため息をついていた暗い表情は薄らいだように見える。
「えっ、基が作ってくれるの?行く行く行きたい!」
以前に部活のお手伝いでもらったご褒美のミニサンドが蘇る。
「ねえ、なんでスーパーまで行くの?まさか基んちも冷蔵庫に何にもないの?」
我が家の予備の鍵はどこだった?とキャビネットやFAXの棚の近くを引っ掻き回していた葵は、あ、そうだ!と
(お前……無断でそんな
親の寝室など一歩でも入る気にならない基は、葵が「あったよ!予備の鍵ー!」と嬉しそうに見せびらかす様を信じられない表情で眺めた。
「ちょっと待ってて。お財布とメモ用紙持って来るから……ってぇ、なぁにその顔?」
基がいつものポーカーフェイスではなく、今日は表情がおかしい。今の怪訝そうな顔などは、普段ではあまり見られない。
「……お前さあ、そっちの部屋って、おじさんとおばさんの寝室だろう?よく平気で入れるな」
葵には言われた意味がいまいち分からない。
「寝室?て言うか、クローゼットの中だもん。別に」
「そっちの方が恥ずかしくないか?」
葵はギクリとした。顔に出てしまっただろうか。普通だと、母親のクローゼットの中を自分くらいの歳の男子は恥ずかしいと思うもの……?それとも、基が特別恥ずかしがり屋なのだろうか……?
「……お母さんのだもん……別に」
基は意外そうな顔を向けて、「そうか」とボソッと口ごもり、それ以上は続けなかった。
(普通は恥ずかしいとは思わないものなのか……?恥ずかしいと言うか、気持ち悪いと言うか?葵が鈍いだけなのかもな)
この時、互いが『母親の寝室やクローゼット』に正反対な感情を持っていたとは、二人には察知出来るはずもなく、考えもつかなかった。
(いい匂いがして綺麗な洋服とか小物があるだけじゃん。基ってば、何が恥ずかしいんだろ?)
葵は四十代の母親の下着を見たとしても、全く感心が無いわけではないが、違う意味で憧れていた。
「ほら、早くメモって来いよ。昼飯が遅くなるだろう」
「うん、待ってて」
何かが腑に落ちない二人であった。
「ねえ、さっきも聞いたけどさ、サンドイッチを作る食材がないくらい冷蔵庫が空っぽってことぉ?」
葵がニタニタしながら話しかける。
スーパーは家と中学校のちょうど真ん中の位置にあるので、二人とも徒歩で向かっている。
「あほ。お前んちと一緒にするな。カツサンドの中身を買って来るんだよ」
「えっ、カツサンドを作ってくれるの!やったぁー!お母さん有り難うー!」
「なんでおばさんに有り難うなんだ。俺が作るのに」
「だってぇ、お母さんが僕のお昼ご飯を忘れてたから、基が作ってくれるカツサンドが食べられるんだもの。あ、有り難う基も!」
ガクッ、と基が体を傾けると、身長が高いせいか、コントのように見えた。
(さっきのため息ついてた基じゃないね、大丈夫かな?)
基が悩むことを隠さなかった。自分も打ち明けた方がいいのだろうか。しかし、悩みの中身が中身なのである。しばらくは、隣で見守ろうと考えていた。
商店街と呼んではいるが、アーケードは見当たらない。狭い駐車場があるスーパーと、専門店の個人商店が幾つか固まって建っている。最近は郊外に広い駐車場を備えて多種多様なテナントが集まっていて、核となるスーパーや映画をはじめアトラクション広場、レストラン街を併設する大型複合施設の建設が始まっている。子供はもちろんのこと、大人もアウトレットと同様に期待に胸を膨らませていた。
その反面、小さな個人商店や駐車場の狭いスーパーなどは商売に暗い影を落とすだろうと心配されている。
「あれ、こっちに公園てあったっけ?」
スーパーの駐車場の少し奥まったスペースが拡げられ、整地されてウォーキングや軽く運動が出来そうな小さな公園になっていた。遊具は殆ど見当たらない。せいぜいベンチが数基あるだけだ。
狭い駐車場の方を拡げてくれればいいのに、とスーパーの利用者は思ったらしいが、地主が異なり反対意見も加わって、最終的に空きスペースは公園に姿を変えた。
「こっち側は通学路じゃないから葵はあまり来ないかもな。つい最近だよ。荒れ地対策として市がやったって」
「へえ……詳しいね、基」
「スーパーの鮮魚コーナーのおじさんが言ってた」
「……ふーん……」
(主婦かよっ!)
良く見ると、数人が柔軟体操や軽いランニングをしていた。
走っていた若者が、こちらに気付いて手を振った。
「ん?あれ、もしかして……早瀬?」
もしかして、と言いつつも軽く手を振り返す葵だ。
かろうじて、顔が何とか見分けられる距離だった。
「……だな……」
学校が休みの時は、陸上部の彼はこの公園を使って軽いトレーニングをしていたのだ。
基が嬉しそうな表情を浮かべたことに葵は全く気付かない。
走っていた彼が、そのまま方向を変えて葵と基に近付いて来た。
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