第5話 おめでとう! 無事赤ちゃん誕生。でも……

 翔の出産は分娩第二期に入り、「排臨」と呼ばれる、赤ちゃんの頭が見え始める時期まで来ていた。赤ちゃんの頭はどんなに一生懸命いきんでもすぐには出てこない。少しづつ少しづつ出ては戻り、また出ては戻りを繰り返しながら進む。まさに一進一退である。


 やがて大量の汗に冷や汗も混じる頃、腰の痛みが更に増していた。

(翔……苦しいのかな……もうすぐよ、がんばって)早紀も声掛けしつつ、心の中で必死で応援する。

 

 この「排臨」の後には、「発露」と呼ばれる時期に進む。

「発露」は、赤ちゃんの頭が最大周囲に近い所まで出てきて、陣痛の合間にも児頭が体内に引き込まれなくなる時期である。ここまで来ればもう赤ちゃんの頭が完全に出るまではわずかな時間で済む。


 翔は今にも気を失いそうになりながらも、なんとか鏡で間欠期にも黒々とした胎児の頭が引きこまれていない事を確認した。

(やっとここまで来た。あとちょっとだ。よーしがんばるぞ!)気を引き締め直す翔。

(そうよ早紀。赤ちゃんがすぐそこまで来ている事を感じる事が出来ればきっと頑張れるから。その調子)美波も心の中で応援しつつ、自分のすべき仕事に集中していた。



 胎児の頭に押し広げられた骨盤がメリメリッと音を立てているようだ。


「もういきまないで。短息呼吸してください」

 発露後は、いきむと会陰裂傷を起こしてしまう。鷺沼医院はなるべく会陰切開しない方針である。美波はその神がかった会陰保護で翔を介助する。


(そ……そんな……あ~とてもいきみたい! 我慢出来ない!)

 それでも翔は今までの道のりを思い出し、呼吸法を実施した。

「ハッハッハッハッ」

 短息呼吸でいきみをのがす翔。

 

 狭いその出口を突破しようとする頭部は、今まさに最大の直径の所まで出てきた。

 あと少しだ。

 

(はぁ~~ッ。大きいのが挟まってる)

 翔は次の陣痛に向けて一息ついた。

(大丈夫。きっと裂けない……カトミナの会陰保護は神だし……)


 また痛みが……ぐっと穴が盛り上がって、胎児のおでこまで露出した。

(ここからは急に出ないように少しづつ出さなきゃ)

 翔は気を引き締め、必死でいきみを押さえる。


(うう……苦しい……でももう少しだ。やっとここまで来たんだ)

 収縮する子宮内が苦しいのか、激しく動く胎児の動き。

(赤ちゃんも苦しいんだ……ごめん……もう少しだけ待ってて)


 あいかわらずひどい痛みと吐き気が襲う。少しづつ頭が出始める。


(あッ出る)

 ついに羊水で濡れた頭が全部露出した。


 少しだけ楽になった。すると、急に肩が飛び出して来た。ここからは早い。頭が出るのにあれだけ時間がかかっていたのが嘘のようだ。

(あ……今肩が出て来た……これはお腹かな……腰、脚……すごい、こんなにはっきりと感じるんだ……)


 体内に残されていた羊水が激しく飛び散ると同時に、熱く巨大な胎児の身体全体が産道をくぐり抜けていった。


 ついに翔と早紀の赤ちゃんがこの世に生まれて来たのだ。


 一気にしぼむお腹。しばらくの間放心状態でぼーっとする翔。


「原口さん、赤ちゃんですよ。おめでとう」

「ありがとう」


 美波から手渡され、翔はへその緒で結ばれたままの赤ちゃんを抱きしめた。

 そして、こみ上げる満足感。

「カトミナ。本当にありがとう。ちゃんと下から産めたよ。あなたに取り上げてもらえて嬉しい」翔は思わず、プライベートでの呼び方で話しかけていた。

「どういたしまして」


「ねぇ、あなたの事、小説に書いてもいいかな?」

「えっ?」

「私、実は小説家を目指して今色んな小説を書いているの。このお産の経験も書いてるんだよ。だから……」

「そうなんだ。私の事書いてくれるの? もちろんOKだよ」


「ありがとう」

「書けたら見せてね」

「もちろん。ちょっと恥ずかしいけど」


 約束どうり、早紀(見た目は翔)がへその緒をカットした。

「こんなに固いんだ。なかなか切れない」

 見た目は細長くてやわらかそうなへその緒も、自転車のチューブぐらいの強度がある。


 早紀は、目の前に産まれた命を見た。本来ならば自分が生み出すはずだった我が子である。自分の代わりに翔がこの世に送り出してくれた尊い命である。


「はあっ……はあっ……」

 分娩台には、何時間にも渡る出産時の疲労から、上気した顔で荒く深い息をたてながら翔が座っていた。その顔は、喜びと安堵に満ちていた。


 更に胸元には、翔と早紀の子が乳に吸い付いていた。翔のはちきれんばかりに大きくなっていたおなかをずっと見ていた早紀は、かなり小さく感じたのだろう。

「こんなに小さいんだね」

「え~。出る時すごく大きく感じたよ」翔は少し余裕が出て来たのか、笑顔で対応する。


「すごいね。何も教わっていないのに、自然に何をすればいいかわかるんだ」

 早紀は、ちゅうちゅうと乳を吸う赤ちゃんを観ながらささやいた。

(そう言えばまだ元に戻らない。たしか目的を達成したら戻るんじゃなかったっけ?)


 翔と早紀は、まだ自分達の身体が戻っていない事を確認し、少し不思議に感じていた。


 これは決して不思議ではない。なぜならまだ出産は終わっていないからだ。


 赤ちゃんが生まれるまでが分娩第二期で、この後まだ分娩第三期が控えている。胎盤やへその緒、羊膜等の胎児の付属物がすべて体外に排出される時期だ。これが終わるまではまだ出産の途中なのである。


 通常ならば胎児娩出後、10分程度で胎盤が出てくるための陣痛が起こり、比較的容易に体外へ産出される。


 ところが、翔の場合、一時間近く経過しても胎盤が出て来なかったのである。

「困ったな。自然に胎盤が出て来ない。先生、もう一度見ていただけますか」

 美波は鷺沼医師に言った。


「まずは胎盤圧出法を試してみます」

 胎盤圧出法とは、子宮マッサージ等で自然に胎盤が剥がれるよう促す措置だ。この際に臍帯静脈から生理食塩水を注入する。


 鷺沼医師の処置によって、なんとか胎盤も排出された。

 と、そのとき、翔と早紀は再びまばゆいばかりの光に包まれ、次の瞬間に元通りの身体に戻っていた。


(早紀、本当にありがとう。僕に出産を経験させてくれて。すごく痛かったけどすごく良かったよ)

(翔、本当にありがとう。私に代わってあんな痛い思いしながら赤ちゃんを無事送り出してくれて)

 翔と早紀は、無言のままじっと見つめ合っていた。


「疲れたでしょ。ゆっくり休んでね」翔は今までの自分が体験していた過酷な状況を思い、早紀に声がけした。

「ありがとう。私、本当に幸せだよ……」


 激しい睡眠不足からか、早紀はあっという間に深い眠りに落ちた。

 無理もない。出産は自分が想像していたよりもはるかに過酷な経験だ。翔は、良く乗り切れたものだと心から思っていた。


◇◇◇◇◇◇



 読んでいただきありがとうございました。


 次の第6話はついに最終回! 翔と早紀の夢の行方は? いったいどうなるのでしょうか? お楽しみに!

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