【5】海辺の朝 虹の午後

 翌朝、約束通り2人で外に出ると、ゆく道の足元には朝露に濡れた露草が朝日に光って、その青に目が冴えた。



 隣合って歩く。出会って数ヶ月だ。だけど一緒にいる時間が急に増えたせいか、明日からは頻繁には会えないんだな、と思うと、少し寂しい気持ちになった。


 次に会う時は、制服も冬服になってるだろう。


「ねえ」

 美奈がこちらを見上げながら口を開いた。赤くなって後の言葉が続かなくて。喉の奥でくくっと笑った。


「昨日、残念だったな、あとちょっとだったのになぁ」


 わざとニヤ着いた顔をして見下ろすと、美奈は真っ赤になった。

「からかわないで」

「ふふっ、ごめん」

「…てっちゃんは初めてじゃないでしょ?」

「そりゃあな」

 不貞腐れて赤くなって下を向く美奈が愛おしくて、手を取った。

 美奈は驚いてこちらを見上げてきた。目が合うと、照れくさそうに笑った。


 ああ、可愛いな。


 素直にそう思う。愛おしくて自分だけのものにしてしまいたくなる。

 浜に横たわった大きな石の上に腰を下ろすと、美奈ももそれに習った。手を離すと美奈の後ろに手をついた。少しずつ近くなる距離。腕の中の体温、美奈の香り。




「昨日調べたのここの最寄り駅までの時間」

「…うん」

「電車で30分、バスで15分」

 微妙な距離だ。

 週末でもないと、美奈がここまで会いに来るのは難しいだろう。それにどうするかは聞いていないが美奈は受験生だ。これから本番である。


「毎日会ってたのに、あんまり会えなくなるね」

 肩に頭を乗せて、僅かに頬を擦り寄せた。

「うん、でも美奈は受験するんだろ?」

「うん、一応ね」

「じゃあ俺に会う時間をさいてる場合じゃないよ」

「会いたくて気が変になる、きっと」

 語尾は涙で掠れた。

 髪を撫でて居るとたまらなくなる。こっちまで切なくなる。

 泣かないで欲しい、笑っていて欲しいと思う。



 しばらくそうして慰めていたけれど、泣き止んだ頃合いをみて、家に帰ることを促した。


「やだ」


 母親が絡むと、どうしてこう意固地になるのだろう。

 俺はため息をついた。


 肩の横にある小さな頭をそっと撫でる。その頭がこちらを向いて見上げてくる。



「こんな年下なのに、なんでだろうな。お前に会うのずっと待ってた気がするんだよ」


「8歳くらい、離れてるなんてよくあるよ」


「うーん、俺は周りにいないからな」

「私もいない」

「フッ、じゃあなんでよくあるなんて言うんだよ」


 笑いながら美奈を抱き寄せると、髪の甘い香りが鼻をくすぐる。

 大切にしたいと思ったのだ。この先ずっと一緒に生きていきたいとすら思うのだから。



 夜明けの海は、薄紫色の朝焼けが綺麗だった。美奈のすすり泣きの声も、波の音も、こんな朝焼けを見たらきっとまた思い出すのだろう。




「美奈」


 身体をそっと離すと向き合って手を取った。その目を見下ろす。


 目じりがキュッとした、ぱっちりとした勝ち気そうな目は涙に潤んでいた。


「この先、俺は出来たら美奈と一緒に生きていきたいと思ってる。それにはさ、美奈はさ、最低でも高校は出ないといけないの。親御さんの希望だし、世間はまだまだ学歴社会だ。働くにしても高校卒業してないとなかなか雇って貰えないんだよ。それに君はまだ未成年だし、親御さんにも君を独り立ちさせる義務だってあるんだから。君一人で決められる問題じゃないんだよ?」


「…それは分かってるけど」


「後、お母さんに口うるさく言われるのは、大事にされてるからだ。想われてるからなんだよ?君のことが大切で大好きだから心配なんだよ?それは分かってあげて?」


「それも、分かってるつもりなんだけど」


 言い淀んだ美奈の目を覗き込む。目が合うと微笑んだ。


「君は賢い。きっと今はどうするのが1番か分かってる」


 言うと、美奈は1度逸らした目を合わせて、うなづいた。


「そうしたくないのはプライドだ。君の自分自身を守ろうとするプライドがあるからなんだよ、それも悪いことじゃない。ただ使い方を間違えたらダメだ。守りつつ、交渉しないとな」


「…うん」


「言う時、一緒に居てあげるから、ちゃんと親にどうしたいのか話しなよ」


「…分かった」


「いい子だ」


 頭を撫で、その手で両の頬を挟むと顔を上に向けた。朝露に輝く秋の朝のような瞳。白くて滑らかな肌、品の良さを物語る唇。


 揺れる双眸に胸がギュッっと切なくなった。


 やがてゆっくり閉じ始めた瞳を見つめながらそっと近づくと、唇が重なった。優しく啄む。


 甘やかで温かいそのキスは、それまで他の女性としてきたそれよりもずっと、自分を幸福な気持ちにさせた。


 やがて、そっと離れると、美奈の赤くなった頬を指でつつく。


「あと数ヶ月だ」


「うん」


「卒業したら、またここに来たらいい。それまで後のことはお預けにしとくよ」



 イタズラめかして言うと、美奈は更に赤くなって顔を両手で覆った。その様子に目を細める。


「そんな赤くなって…」


 俺が喉の奥で笑うと、肩の当たりをパシンと叩く。


「もう!からかわないで!」


「からかってないよ、本気だもん」


 見開かれた美奈の瞳が、かすかに煌めいた。

 俺はそこから立ち上がると見上げてきた美奈に手を差し伸べる。


「どうだ?帰るか?」


「…帰る」


「よし」


 俺の手を握った美奈の手を、しっかりと握ると引っぱってやる。

 立ち上がった美奈はスカートの後ろをはたいた。もう一度手を差し伸べると、俺の手に細い手を滑り込ませてきた。その手を軽く引きながら、従兄の家へと向かう。


「ねえ」


「うん?」


 美奈が立ち止まった。


「もう一回だけして?」


 見上げてくる瞳が揺れる。


 フッと笑うと、身体をかがめて、頬に口付けた。


「なんで!?」


 頬を押えて驚いた美奈を置いて、走り出した。砂が足にまとわりつく。


 振り返って少し離れたところから叫ぶ。

 自分の顔が赤いことを隠すためだ。


「それ以上するとぉ!お預けの覚悟が揺らぐから!!」


 遠目にも美奈の目が大きく開かれたように見えた。


「もう!」


 美奈も負けずに赤い。その顔が可愛いから、あんまり近くで見てたらダメだ。


 美奈が走って追いかけてくる。


 その足取りを見て、若いな、と思う。


 いつか。


 君がもう少し大人になったら、こっちからお願いするよ。




 俺とずっと一緒にいて?って。



 ***



 海辺の穏やかな冬を越して、暖かくなった季節。美奈の大学の合格の報告を聞いた。


 玄関の傘立てには、あの日美奈が置いていったままの傘がある。


 すっかり大きくなった白猫のチナが足元にすりよってきた。


「もうすぐ美奈が来るぞ?」

 チナに話しかけると、ピク、と耳を動かして玄関へと走っていく。チリリ、と淡いグリーンの首輪についた鈴が鳴る。



 相変わらず、生意気な瞳で俺を見て、少し大人びてきた口元で笑い、白い細い手を俺の手に滑り込ませてくるのだ。ここ数ヶ月は月に1度会えたらいい方だった。

 かねて決めた通り、俺は美奈を兄のように見守り、母親との約束を何とか守ってきた。



 もしかしたら、今日はその均衡が崩れてしまうかもしれないけど…


 玄関の引き戸を開けると、さっきまで降っていた雨が止んでいた。東の空に半分の虹がかかっていた。

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