【3】別れの雨上がり
美奈の母と会った日以来、美奈が顔を見せる度、なにか特別なような気がした。
妹が居たらこんな風だったか、という思いから、自分だけにその笑顔を見せて欲しいという気持ちへと移って行った。
育ちも暮らしも全く違うというのに、この先俺なんかと一緒になっても上手くいくはずないと思っている。きっと暮らしの違いなど現実を知れば、それまでぬくぬく育った暮らしに戻りたがるはずだと思っていた。それは今でも変わらない。
それでも、その鈴を鳴らしたような笑い声や、白くて細い指で俺の食事を作ってくれたり、チナを抱き上げて可愛がったり、庭に咲いた花にそっと触ったりするのを見ると、胸がキュッと切なくなった。
「お前、彼氏いないの?」
ある日、ふと尋ねた俺に、美奈は微笑んで言った。
「いたら、こんなにしょっちゅうここに来ないって」
飲んでいたレモンスカッシュをコースターに置くと、にっと笑った。
「てっちゃんが彼氏ならいいのになぁ」
隣合っていた俺の腕に、頭を預けた。半袖の腕に、美奈の髪が触れて、その柔らかさに気がついた。
「冗談言うもんじゃないよ、いくつ離れてると思ってんの」
「あと2年もしたら同じ20代だもん」
制服の襟の合せからのぞく白い首元だとか、細い手首だとか、ほっといたらすぐどこかの男のものになってしまいそうな様子に、僅かに焦りを感じた。
「2年なんかすぐだよな」
「うん、すぐだよ」
「じゃぁ2年経って気が変わらなかったら出直しておいで」
大人の余裕をかまして言うと、美奈はかるく膨れた。
その唇の瑞々しさにドキリとした。
そこからわざとらしくないように目をそらすと、立ち上がった。
「ほら、送ってやるからそろそろ帰りな」
そう言って家に送り届けたのが一昨日の事だった。
帰り道、美奈の髪の柔らかさや、花がほころんだような、笑顔を思い出した。
何がきっかけだとか、いつどの瞬間、という感じではなかった。何となく散歩に出かけたら、何故か離れ難いと思えるような場所にいた、そんな感じだ。
ああ、あんな年下の女の子に絆されてるなんてなぁ、と、その日、美奈への気持ちを自覚した。
翌日、朝から雨が降っていた。
それをぼんやりと眺めながら、チナを膝の上で撫でていた。さてと、と思い腰をあげたのは、遅い朝食を食べ、片付けてからである。
***
美奈がには気が付かれない程度に、夜の時間を使って荷物を纏めていた。それまでもほんの少しずつやってきている。
『てっちゃんの家は物が少ないね』
そう美奈が言うほど、密かに準備してきてたのだ。
放課後、美奈が家へやってきた。制服はまだ夏服だが、長袖のものを着ている。下ろした髪が少しうねっていて、ああ、今日は雨降ってたからなぁと、俺はぼんやりと思った。綺麗に畳んだ傘を持ったまま、呆然と家の前に立ち尽くしていた。
引越し業者が荷物を運び出していたからだ。
「なんで?」
美奈に気がついて店の外へ出ると、唐突に聞かれる。
「うん、ごめんな、内緒にしてて」
店の前には閉店しました、と貼り紙を貼った。
引越し先の方には従兄が居てくれて、運び込むものは見てくれることになっていた。
美奈がやってくるのを待って、ちゃんとお別れを言うつもりだったからだ。
もし今日来なければ縁がなかったのだろう、と黙って去るつもりをしていた。
だが美奈はやってきた。
「どこに行くの?」
「海沿いの町」
「どうして?」
「祖父の家があるんだ、貸してた家族が引っ越したから、そこに住もうと思って」
「仕事は?」
「近くの友人のところを手伝う事になってる。その家の家業の継ぎ手が居なくて。昔そこでバイトしてたから、もしかしたらその仕事そのまま継がせてもらうかも。その後のことは色々考えてるけど、とりあえず」
「話してくれなかったのは?」
「今日、君がこなかったら黙って消えるつもりでいたんだ」
美奈の目から涙が零れた。
「これでおしまいでいいですかー?」
業者に聞かれて、とりあえず、と答えた。サインをすると、従兄に連絡を入れて、チナを膝に乗せて縁側に座り込んでる美奈の所へ戻る。
チナがぴょんと膝から降りて庭の木に登った。
「てっちゃん」
「うん?」
隣に座ってチナの白い背中を見守る。
美奈が体を寄せて抱きついてきた。体の向きを変えて、足の間に美奈を座らせるようにして、そっと抱き寄せた。
夏の終わりのツクツクボウシがすん、と鳴き止んだ。
どこからかスズムシの声がする。夏と秋が混在する。
「私は、もう子供じゃない」
「うん?」
「だから、今夜は家に帰らないよ」
そういうと俺の腕からそっと抜けてじっと俺を見つめた。
潤んで揺れる瞳。蒸し暑い空気に、少し交じる風。汗の匂いと美奈の髪の香り。
視線が交わると、美奈の頬を撫でた。耳の後ろに手をやると、そっと近づく。心臓の音がドクドクと音を立てる。そしてほんの少しの罪の意識が、僅かな理性に呼びかける。だが俺は知らぬ顔をした。
息遣いがお互い感じられるほど近づくと、あと数ミリで唇が触れる瞬間にスマホの着信が鳴った。
ドキリとしてお互いが身体を離す。
電話は従兄からだった。
「うん、うん、こっちの用事済ませたら今夜にはそっち行くから。ありがとう。」
スマホの画面を閉じると、美奈に向き直った。大きく息をひとつついて、気持ちを落ち着けた。
「一緒に来る?」
「え?」
「ただし、泊まるのは従兄の家」
「…」
「後、お母さんに電話を入れること。俺からもちゃんと挨拶する」
「…分かった」
美奈が電話を入れると、美奈の顔がだんだん不機嫌になった。
「代わって?」
声をかけると、スマホをこちらに渡した。
「芦田です。こんにちは。…はい、ええ、ここにいるって言うのがわかる方が安心すると思うんです。なので1晩美奈さんを預からせて貰えますか?はい、僕の従兄夫婦の家が近くにあって、そこに泊まらせてもらうつもりで。はい、子供たちもいるので、はい」
美奈の母は、明日の朝送り届けてくれることを条件に外泊を了解してくれた。
「話したらちゃんと分かってくれたよ?」
「私が必要なことだけ話すと諦めさせようとあの手この手で責めるの」
「ちょっと被害妄想入ってない?」
「外面いいのよあの人」
そう言ってまたむくれた。
「しょうがないなぁ」
俺はため息混じりに言って肩を落とした。
引越し先までは俺の仕事に使ってたバンで向かった。
「ねぇ、チナ、キャリーに入れなくてもいいの?」
「君が居てくれるから大丈夫かなって思って」
笑って答えた。
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