【2】母と過去

その日、猫の世話の仕方を細かく教えてもらった。美奈はこれまでこういう猫の保護を何度もやってきてるそうだ。分からないことがあれば連絡するようにとLINEのIDを置いていき、そしてそれはとても役に立った。

 美奈は翌日も学校が終わったら店までやってきた。

 子猫が可愛くて仕方ない、という様子なので、気が済むまで通ってきていいよ、と言った。そのうち離れていくだろうと思っていた。


 猫が離乳食を卒業するほど大きくなって、俺が世話に慣れてからも、美奈は店まで来ては細々した仕事を手伝ったり、俺が独り者だと知ったあとは、時々夕飯を作ってくれたりした。自分のことは名前と女子高生であること以外話さなかった。


 美奈が高三で受験生だと知ったのは、美奈の母親が昼間に俺の所へ1人で現れた時だった。



「美奈が、いつもお世話になってます」

 品の良い女性だった。明らかに中流より上の家庭で育って、結婚した相手もそれに相応しい相手で…と、それを思わせる雰囲気がそこにあった。美奈を送る時も、近くのコンビニまで送ってそこで別れていたので、どんな家に住んでいるかも知らなかったが、母親によって大体の想像がついた。


「美奈は、やらなければいけないことから逃げてるんです。ここに入り浸ってるのは居心地がいいからでしょうね」

 明らかに下層の生活をしている自分を見下すことも無く、静かに微笑みながら、じっと俺の目をみて。

 俺の出した冷たい茶を1口飲んだ。


「自分に厳しいことを言わない所があると、どうしてもそこに逃げますからね。悪い意味じゃないんです。そういう場所は必要だと思ってますし」


 とため息をついた。


「去年までは、義母がいて、あの子の逃げ場所になってくれてたんです」

 ああ、おばあちゃんね、と俺は思った。

 幼い頃、叱られるとおばあちゃんが庇ってくれたり慰めてくれて、元気を出す、という事があった。時にはなぜ怒られたのかを考えさせてくれることもあった。


 親に頭ごなしに叱られても、反発しか出来なかったが、同じことを祖母に言われると、自分に非があったことに気がついて反省出来るのだ。

 不思議なものだな、と子供心に思った。


「義母が去年亡くなってからは、中和してくれる存在もいなくて。私とあの子が上手くいってないのは、よく分かってるんです。今はもっぱら進学のことで喧嘩になるんですけどね」


「美奈さんは、どうしたいって言ってるんですか?」

「決められないの一点張り。ワガママに聞こえるけど、ほんとうはやりたいことがあって言い出せてないんだと思ってます」

「はあ」

「本人の口から、その話を聞いて、その気持ちが本当だと分かれば応援しますけど、あの子は私に言わないんです。多分反対されると思ってるんでしょう。大事にしたいことであればあるだけ、言い出しにくいんでしょうね」

 俺の出した安い茶をそっとひと口、口にした。その仕草が美奈とそっくりで、口元が緩んでしまった。

「羨ましいです。心配してくれる親がいて」

 俺は言った。美奈の母親の目が少し見開かれた。

「親御さんは?」

「父は子供の時に亡くしてますし、母も3年前に。俺はもうひとり立ちしてたけど、やっぱり寂しかったですね、家族が1人も居ないというのは」

 壁に飾った、母とふたりで撮った写真を見つめる。こんな小さい店、無くして、好きに生きていいんだよ?そう言っていた母だったが、結局何も変わらぬまま今に至る。

「あなたは若い男の人ですし、あの子があなたにそういう気持ちを持っていてもおかしくないと思ってるんです」

 美奈の母親は庭に咲いた朝顔を見つめて言った。その言葉にはさして驚きはしなかった。ここ最近は、美奈からこそばゆいほどの好意を感じ取っていたからだ。

「あの子がどんな道を選んでも、誰のせいにもしないで納得して生きていけるならそれでもいいと思ってます。ただ、高校だけは卒業して欲しい。その先を決めるのはあの子。まあ、大学は出なさいとはずっと言ってきてるから、今更、大学に行くかは自分で決めなさいとは言いにくくて」


「俺はどうしたら?」

「もし、あの子が進路のことで悩んでたら話を聞いてやって貰えませんか?あとは…まだ子供ですし、女性として扱うのは、なるべく控えてもらいたいんです」

 と目を逸らした。俺はふっと笑ってしまった。

「いや、すみません。要するに相談してきたら聞いてやって欲しいって事と、でもまだ子供だから手を出さないでくれって事ですよね?」

「…はい」

「分かりました。大丈夫ですよ。こんなでもわきまえはあるつもりです。美奈さんはあと数年もしたらきっと、いい女になるだろうなぁとは思ってましたけど、それくらいだし、未成年に手を出して通報されるのはゴメンです」

 と笑うと、美奈の母は幾分かほっとした顔をした。

「…俺にあんな妹がいたら、と思ったことはありますけどね」


 軽く目を伏せた。

「高三、18になる年なんですね」

「ええ」


「俺、7つ下に、本当は妹が居たはずなんです。産まれてくるのを楽しみにしていたのに死産で、幼心にショックを受けたのは覚えてます」

「まあ」

「だからですかね、不意に現れた美奈さんを見てるうちに、生きてたらこんな感じだったかな、と重ねてたところはあります」

 猫の名前を、クチナシの下にいたから、チナにしよう?と見上げてきた、少し紅潮した頬を思い出した。もし妹がいたら、あんなふうに甘えてきたのかな、と思ったのは本当である。


「だから、もし相談を受けたら、ちゃんとあなたに話すように諭します」


「そうして頂けると…おかしなものですね…」


「はい?」


「私も、1度流産してるんです。あの子よりずっと前に。諦めた頃にあの子をさずかって…」


「何かの縁ですかね?」


 俺が言うと、彼女はふっと笑って、半分残っていた茶を飲み干した。


 美奈の母親は、そろそろ、と言いながら、そっと立ち上がった。

 その時、意外に背が高い事に気がついた。美奈の時もそうだった、と初めて会った日を思い出した。


「お仕事中だったのに。突然現れて、長話してすみませんでした」


「いえ、そんな忙しい店でもないですし、もう畳むつもりなので」


「え?」


「父方の祖父の家も相続してて、そっちには知り合いが多いし、引っ越そうと思ってるんです。とりあえずの仕事も貰えそうだし、ここはまあ、駅前だから多少高くは売れると思うので」


「そう、いつ?」


「2ヶ月くらいですかね」


「美奈には?」

「言ってません」


 足元に擦り寄ってきた白猫、チナを抱き上げた。にゃー、と泣いて俺を見上げる。

「改めてお願い致します。もし、迷惑でなければ、それまででもいいです、あの子の拠り所になって貰えますか?」


「…俺なんかで良ければ」


 美奈の母親は微笑んだ。それが答えのように、それ以上何も言わないで頭を下げて帰って行った。


 見送った道の先から、陽炎が立ち上っていた。


 夏の盛りの、ものすごく暑い日だった。

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