第7話 馬頭の怪物
……あれから何時間が経っただろうか。
私は膝に手をつき、がっくりと項垂れた。
「ま、まさか一本道で迷うとは思いませんでしたよ……」
この街道は、ルーチェの町からまっすぐに伸びている。たとえ三歳児ですら迷うことなく歩けるだろう。
「うぅ……私は18歳児の迷子さんですぅ……」
あまりの情けなさに、目の端に涙が溢れてきた。
泣きたい衝動をぐっと堪えて、目の端を拭う。今は悠長に泣いている場合じゃない。
顔を上げて周囲に目をやると、そこには真っ白な霧の海。いつからか濃霧が周囲を包みはじめて、気づけば辺りが何も見えないほどになってしまっていた。
「……なんだか、まっすぐ歩いているのか、ぐるぐる回っているのかわからなくなってきちゃいました」
街道をまっすぐ行けばいいというのはわかるのだが、そもそもどの方向がまっすぐなのかわからない。迷ってしまうのは仕方がないというものだ。
(……そう、私に方向感覚がないんじゃない!)
自分にそう言い聞かせ、腰に提げた水筒を一気に呷る。
ずっと歩き続けていたから、身体が水を欲しているのがわかる。
じんわりと身体中に沁みわたっていく感覚を堪能してから、一度息をつく。これでまた歩く気力が湧いてきた。
頬を軽く叩き、背筋を伸ばす。
「よしっ、もうひと頑張りですっ! ルイさんに認めてもらうためにも!」
両手をぐっと握り、ふんっと鼻を鳴らしてから歩き出す。
それにしても、ルーチェに来た時もこの道を通ったのだが、まったく霧なんて出ていなかった。しかも、足の裏から感じる地面の感触も、自分の知っている街道の感じと違っているように思える。
「うーん、もしかして街道から離れた場所まで迷い込んだ、とか……?」
本当にそうだとしたら、何とも情けない。
まだそうと決まったわけではないが、ほんのりと頬が熱を持ってくる。熱を冷ますために、少し扇いでおこう。
「キョ、キョーハ、アツイナ~……」
通行人がいたら、完全に白い目で見られていたことだろう。これに関しては、濃すぎる霧に感謝しなければ……。
そうしてしばらく歩くと、急に視界が開けて人影が浮かんでくる。
「あれ、もしかして門の前であった行商人の……」
「……!? もしかして、あんときの嬢ちゃんかい……!?」
なんという偶然。一石二鳥というやつだ。
「あのときは大変お世話に……――」
言いかけてやめた。
震えているのだ。身を寄せ合った大の大人が十数人も、肩を寄せ合って何かに怯えるように震えている。
その後ろに目を向けてみると、大きな荷車が見える。だが、これもおかしい。
車輪は壊れ、横転。雨風の浸入を防ぐための幌は、刃物で斬りつけられたように敗れてしまっている。
何があったというのだろうか。
この惨状といい、行商人たちの怯え様といい、明らかに尋常ではない。
急いで駆け寄って、縮こまる行商人に目の高さを合わせてやる。
「大丈夫ですか? 何かあったんですか?」
「や、ヤツが……ヤツにやられたんだ……ヤツに……」
「“ヤツ”? それって一体……――」
要領を得ない。何かに襲われたということなのだろうか。
首を捻りながら立ち上がる。
――その瞬間、背筋に悪寒が奔った。
逃げ出せばよかった。しかし、ここで私は振り向いて悪寒の正体と対面することを選んでしまった。
「…………え?」
まず目に入ってきたのは、馬の頭。だが、頭の位置がおかしい。自分の頭より遥か上にあるのだ。
そこから視線を落としていくと、分厚い筋肉の鎧に包まれた人間の体躯が映り込む。
――半人半馬の
ごくり、と息を呑む。
教会で危険度の高いモンスターのリストを確認したときに、見たことがある。
名前は『ティクバラン』。人を迷わせ、自身の領域に引きずり込んでから捕食する馬の頭を持つ巨人。危険度は最高ランクのSからひとつ下のA+。普通なら、十人程度で役割を分担して討伐するような強敵だ。
マズい。目が合った。
ぐっと四肢に力を籠め、行商人たちを背に臨戦態勢に移る。
……怖い。怖い怖い怖い。
今にも心臓が破裂してしまいそうなほど、バクバクと鼓動が鳴り続けている。
それでも、私は退けない。背には守らなければならない人たちがいるのだ。
それに……――。
(こんなとき“不屈の勇者”なら、絶対に逃げません――ッ!)
視線をキッと強め、長杖をティクバランに向けて構える。
勝てなくとも、せめて背に負ったみんなの逃げる時間ぐらい稼げれば……。
――そのとき、ティクバランが動いた。
異様に長い丸太のような腕をゆったりと振り上げると、そのまま力任せにこちらへ振り抜いてくる。
「ぐっ……!?」
咄嗟に杖で防ぐも、あまりの威力に全身が浮遊感に包まれる。
そして、気づけば荷車に突っ込んでいた。
「かはっ……!?」
じんわりと口内に血の味が広がる。
「じょ、嬢ちゃんっ!?」
すぐに行商人のおじさんの声が飛んでくる。心配をかけてしまった。
よろめきながらも、荷車の残骸から顔を出す。
「だ、だいじょうぶ……です……。これがクッションになってくれましたから……」
残骸を指さして、無理やり口の端を吊り上げる。
……ああ、笑顔をつくるだけでも身体が痛む。
震える手足には、もうロクに力も入っていない。だらりと下げられたままだ。
(くっ……今ので腕が上がらない……)
大威力の一撃に、痺れて感覚もない。手から杖が滑り落ちる。
ダメだ。このままでは、二撃目が受けられない。まだこちらは一撃も与えていないというのに。
眩む視界の中、もう一度怪物の長腕が振り上げられるのが映る。
(……ああ、こんなところで死ぬんですね)
不思議と怖さはない。あるのは、みんなを守れなかった後悔だけ。
……いや、本当はもうひとつ。
「最後に、ルイさんに会いたかったなぁ……」
直後、怪物の腕が振り下ろされる。
このまま、無防備に投げ出された自分の身体は、あの長腕に粉砕されてしまうのだろう。すべてを受け入れたように、静かに目を閉じた。
一秒経った。鼓動は止まない。まだだろうか。
二秒経った。鼓動はまだ止まない。早く楽にしてくれないだろうか。
三秒経った。鼓動はまだまだ鳴り止む気配がない。さすがにおかしい。
そして、恐る恐る目を開けた。
「…………え」
目を疑った。もしかして、幻覚だろうか。
そうでなければおかしい。理解できない。どうして〝この人〟が、私の目の前に立っているのだ。
最後の願いが見せた幻影なのか。いや、違う。
私が見上げる背中。ゆっくりと振り返るその横顔。それが幻には思えない。
真っ白の頭で、たったひとつ問いかける。
「――ルイ……さん……?」
ティクバランの太い腕を片手で易々と受け止めているのは、見まごうことなく“不屈の勇者”ルイ、その人だった。
「どう、して……?」
必死に喉から言葉を絞り出す。
すると、彼は何を思ったのか、怪物の腕から手を離した。
「あっ……危ないッ!」
反射的に手を伸ばす。
だが、怪物の一撃の方が遥かに速い。すべてを粉砕する威力を内包した両腕は、ルイの脳天へと一直線に振り下ろされた。
「――《天雷》」
消え入るような一言。
その刹那、天から迸った一条の雷がティクバランの脳天に突き立った。
「――――ァァァッ!?」
苦悶し絶叫する半馬の巨人。そして、五秒とかからず絶命した。
しかし、ルイはそんなものに興味はないというように目もくれず、おもむろにこちらへ向き直った。
「どうして、か……」
ふと、そんなことをつぶやいて、少し思案する素振りを見せる。
「……まあ、こいつのせいで金稼ぎができなくて困っていたからな」
そう言って、肩を揉みながら首を鳴らす。
息を吐きながら去ってゆくルイの背を眺め、目を丸くする。
(あっ、さっきの質問の答え……ですか……?)
あまりに雰囲気に合っていない言葉に、思わず笑いがこみ上げてくる。
笑いたい衝動をぐっと堪え、今度は目を輝かせてその背へ視線を送った。
(やっぱり、まだルイさんは勇者としての心を――)
視線の先で、ルイが呆けてしまっている行商人を立ち上がらせる。まるで、手を貸すのが自然とでもいうように、へたり込む皆に手を貸していく。
そうだ、何を疑っていたのか。彼は世界に一人しかいない”勇者”なのだ。
(そうです。あんなに嫌がった素振りを見せながらも、こうやってみんなのために一人で原因究明に乗り出すぐらい正義感に溢れた人なんですからっ!)
うんうん、と頷く。
不意に、目がルイの腰辺りで止まる。
「あれ? ルイさん、そういえば聖剣はどうされたんです?」
ルイの足が止まる。
「確か、魔王を倒した聖剣『レーヴァテイン』が……」
そう、勇者といえば聖剣、聖剣といえば勇者。この両者は切っても切れない関係なのだ。
その聖剣の姿が見当たらないのだが……――。
「……れた」
「へ?」
何と言ったのか、よく聞こえなかった。
耳を寄せて尋ね返すと、ルイはバツの悪そうな表情で少しだけ振り向く。
「………………質に入れた。金に困って」
開いた口が塞がらないとは、まさに今のような状態のことを言うのだろう。
頭の中で『勇者』、『聖剣』、『質』、『金』というワードがぐるぐると回っている。このままではよくわからないから、少し整理してみよう。
――金に困った。だから、聖剣を売った。
うん、わからない。
「じゃあ、俺は帰るから。あとは何とかしてくれ」
すると、ここにいる皆を措いて、ルイが手をひらひらと振りながら去っていく。
「あっ、ちょっ……! ルイさん!? 売ってませんよね? ホントは持ってるんですよね! 勇者ジョークってやつですよね!? そう言ってくださいよぉぉぉぉぉっ!?」
すっかりと晴れ渡った橙の空に、私の渾身の叫びは吸い込まれるように消えていった。
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