第35話 少年の時代の決意①
「は? バスケット? 爺さん、突然どうしたんだよ? これが所謂、認知症ってやつか?」
「馬鹿者。ワシはまだまだ動ける。……それとな、老人に向かって認知症だなんて言っちゃダメだぞ」
「………でも、実際にそう言う人多いじゃん」
「それはそうだが、人に向かって失礼な事を言うのは良くない。以後、気をつけな」
「あー、はいはい。んで爺さん、そのバスケットがどうしたんだよ?」
男は頭をぽりぽり掻きながら続けた。
「……うむ。実はワシは、地域の小さなバスケットチームでコーチをしていてな。それで今、ワシのチームは人手が足りてないんじゃ。特に背の高い奴がな」
男は、チラッと狩生少年の事を見る。
「……」
「それで探していた所に、お前さんが現れた。お前さんは背が高いし、体つきもなかなか良い。それにさっき走ってた感じ、足も速い。ワシは、これでも若い頃は駅伝に出たりするくらい走りには自信がある。実際、この地域でワシから逃れる事ができたのは、お前さんが初めてじゃ」
「……!」
「……どうじゃ? バスケットを始めてみないか? まずはうちのチームに体験に来るだけでも良いぞ? その運動神経と身長を生かしてみないか?」
「……断る」
狩生は、男が喋り終わるや否や即答した。
「……俺は、スポーツなんて興味ねぇ。爺さん達の老後の楽しみに付き合うつもりもないよ。……退け。晩飯の時間だ」
狩生少年は、そう言ってからそそくさと家の中に逃げ込むように入って行った。
*
「……ったく、あのクソジジイ。余計なお世話だっつーの。なーにが、運動神経と身長だよ。どうせ行ったらしょうもねぇ事してんだぜ」
狩生は、靴を脱いで家の中へと入る。家の中は、あらかじめ彼が電気をつけっぱなしにしておいた事もあって明るい。だが、彼の鳴らす音以外には何も聞こえてこず、それどころかせっかくの広い一軒家台無しだと思うようなその位に人の住んでいる痕跡が全くない。使っていない空き家だらけのガラガラの一軒家であった。
そんな一軒家の少し長い一本道の廊下を狩生少年は歩く。
──そして、フライパン一つない綺麗で美しい台所へと彼はやって来て、その台所の下の棚を開けてガサゴソと何かを探し出した。
だがしばらくして彼の表情は焦りに満ちていく。
「……あれ? 買い置きしてたカップ麺がない? あれ?」
少年は、奥にある一度も使った事のなさそうなレトルトのカレー等を退かしてカップラーメンを探した。
……やがて、少年はインスタントに囲まれたキッチンの真ん中で立ち上がり、そして言った。
「……買いに行くか」
*
小学生が1人で歩くには遅い時間。狩生少年は、食事を求めてコンビニへ向かった。彼のポケットの中には小さなボロボロの財布が入っており、その中を開けると福沢の姿が描かれたお札がびっしり入っていた。
「まぁ、余裕で足りるか」
こうして、彼は地元のコンビニでいつもの味噌ラーメンを買いにいくのだった。
──ここまでは、いつも通り。普通に食材を買いに行っただけなのだ。だが、彼の人生が変わったのはこの後だった。
暗い住宅街の道を歩いている時……。
「よぉ坊主。奇遇だな。お使いか?」
またもさっきの男と出会うのだった。
「……アンタ、こんな所で何やってんだ?」
すると男は、頭を掻きながら言うのだった。
「いやな、久美子が醤油を買い忘れたらしくてな。お使い行ってたんだよ」
「ふーん。そうか。まっ、じゃあご飯があるから俺はこれで……」
そう言うと彼はコンビニ袋をグルッと振り回して自分の肩に乗せるとそそくさと男の元から離れていこうとした。
──だが、男はその時の少年のレジ袋の中身を見逃さなかった。
男は、まさかと思い尋ねた。
「……少年、お前の今日の晩飯はなんだ?」
狩生は機嫌悪そうに首に掌を当てて答える。
「あ? ラーメンだよ。カップラーメン。なんか文句あんのか?」
「……おい待て少年。お前さん、親御さんは?」
「親ぁ? ずっと仕事だよ」
「家にはいないのか?」
「……逆に家にいる時なんてほとんどないよ。いても寝てるだけだし」
男は、困った顔で自分の頭をぽりぽり掻きだす。すると、少年はため息をついてお腹を抑えながら言った。
「もう良いか? 俺、早くご飯食いたいよ」
だが、そこで男は広げた掌を突き出して言うのだった。
「待ちぃ。……少年、今日は家でご飯を食べて行きなさい」
「……は?」
──こうして狩生少年は、男に連れられて「太刀座侯」と標識に書かれた家の中へと入っていく事となった。
「……ただいまぁ。久美子〜! お客さんだ!」
すると、家の奥からドタドタと音を立てて1人の女が現れる。
「はいはい。おかえりなさいね。……って、あら? この子は……」
──女の見た目は男と同い年くらいで、その顔は少年もよく知る人だった。
思わず、狩生は指を指して言ってしまう。
「……駄菓子屋のおばちゃん!?」
おばちゃんは、その名を呼ばれて嬉しそうに微笑みつつ言った。
「……あらあら。あなたさっきの子ね。ダメよ。女の子泣かせちゃ」
「……!」
狩生の驚き様を置いて、2人は話し出した。
「……久美子、すまん。この少年に飯を食わせてやってくれないか?」
「あら? どうしたの?」
「実はな……」
すると、男は駄菓子屋のおばちゃんの耳元でヒソヒソと話を始める。
──彼が、これまであった事を伝え終えると駄菓子屋のおばちゃんは言った。
「まぁ、それはいけない」
おばちゃんは、狩生少年の方を見て、しゃがんで言うのだった。
「……待っててね。今、ご飯の用意をするからね」
そうして、おばちゃんは家の奥へ消えていった。
残った2人は、顔を見合わせた後、とりあえず家の中へ上がって一緒にテレビを見て待つ事にした。
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それから、ご飯が来るまでの間は思ったより長くなかった。おばちゃんはテーブルの上にお皿を三枚広げて、その上にカレーライスをのっけていく。
カレーの中身は、じゃがいもを始め、玉ねぎやにんじん、牛肉、インゲンといった沢山の具材が入っており、彼の口から無意識に涎が零れ落ちそうになる。
「……すっすげぇ…………」
そんな料理を前に彼が最初に発した言葉は、うまそうだとかではなかった。おばちゃんは、彼の発したその言葉に何か疑問を覚え、狩生と同じ目線になれるようにと一度座ってから尋ねた。
「……あり物で作ったただのカレーよ。……本当は、お客さんが来るってもっと前に知っていれば、もっと良いものを出せたのに……」
すると、狩生少年はスプーンを掴みながら言った。
「……いっ、いや、こんなに大きい野菜や肉がごろごろ入ったカレーを見るのが初めてだからさ……」
「……あらあら。まぁ、色々話すのは後にしましょうか。……とりあえず、食べてみて」
おばちゃんがそう言うと、狩生少年はスプーンを持ち換えてジーっとカレーを見つめた。そして、生唾を飲み込むとゆっくりとスプーンの先をカレーの中に入れていき、すくい上げる。
――パクッ……。
大きな口を開けて、カレーライスを一口で頬張る狩生少年。ゆっくり味わうような口の動きの後、彼はゴクリとそれを飲み込む。
「……うん。うまい。……なんだ? これ、すっごくうまいぞ! しかも普段食べるカップ麺よりあったかい! すげえうまいぞ!」
狩生少年は、それから興奮気味にスプーンをガツガツと口の中に運んでいき、カレーを食べ続けた。少年が一口カレーを飲み込むたびに「うまい」「うまい」……と声がする。
そんな微笑ましい光景を見たおばちゃんは、嬉しそうに胸に手をあてた。
「良かったぁ。作ってせいかいだったわ……」
「え? これ、おばちゃんが作ったの?」
狩生少年は、おばちゃんの一言を逃す事なく質問する。おばちゃんは、目を丸くして答える。
「そう、よ……?」
すると、狩生少年は興奮気味に言った。
「すげぇ! こんなにうまいもん作れるなんてすげぇよ! 俺、こんなの食べるの初めてだよ!」
「あっ、あら……。そう……。良かったわ! おかわり、いっぱいあるからじゃんじゃん食べてね!」
かくして、狩生少年の胃袋は完全に掴まれてしまったのである。
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