第30話 カスミソウは、幸福を求めて走り出す

「ただいま……」


 早朝のランニングから霞草は、帰って来た。すると、家の中から香ばしい香りがしてくる。




 ――グゥゥゥゥゥゥ~。


 彼の腹が鳴り出す。外に出る前に食事をとったはずだが、どうも小腹が空いてしまう。



 ――何か軽く食べるか。





 そう思って、霞草はキッチンの方へと向かった。足を前に前に進めれば進めて行く程に香ばしい匂いがより強くなっていく。




「母さん。ただいま」




 キッチンに入った彼は、すぐそう言った。――息子のその言葉を聞いて、母はチラッとだけ振り返って霞草に伝える。



「あら。おかえり。信ちゃん」



「父さんは?」



「……ととちゃんなら、もう仕事に行ったわよ」



 霞草は、母のいるガスコンロの近くへ移動する。



「何を作ってるんだ?」



「目玉焼きよ。母さんこれから朝食なの」



「……小腹が減ったから貰って良いかな?」





「えぇ。良いわよ」


「ありがとう。母さん」



 そう言うと、霞草はテーブルに座ってお皿を2つ並べてじっと待った。――目玉焼きが皿の上に乗っかるまでそこまで時間はかからず、親子は同じ食卓でご飯を食べるのだった。



「「いただきます」」



 2人の声が偶然重なり合うが、当の本人達は何も気にした様子は見せない。霞草は、テーブルの中心に置いてある醤油を取って、それをかけてから黄身を箸で割り、大きく口を開けて口の中へ運んだ。



「……はむ。んむ……」



 霞草は、母の作った目玉焼きを美味しそうに食べる。彼のそんな、にこやかな食事姿を見て、母は同じくニコニコした顔で喋り出す。



「……今日も走って来たの?」


 霞草が、目玉焼きを半分飲み込んでから話し出す。



「うん。近くを少しね……」




「そう。……朝に運動して、偉いわね」



 母は、ちょうど焼き終わった食パンをとって、目玉焼きを上にのっけて食べだした。――そんな姿を霞草はボーっとした表情で見ていながら考えていた。



 ――偉い、か……。




 霞草は、しばらく何も食べずに考え込んだ。








 そして、彼は正直に今日あった事を喋る事にした。



「なぁ、母さん。今日さ、走ってて天河達に会ったんだ」



「あら。懐かしいわね。……あの子達は、まだバスケやってるの?」




「うん。そうみたいなんだ」





「……そう。懐かしいわね。中学の頃は、信ちゃんも一緒に楽しそうにバスケしてたわね」




 彼は、母のそんな懐かしくも寂しそうな……しかし、嬉しい……いや、というよりような表情を見て、気まずくなった。




 彼の目玉焼きを食べるスピードが落ちる。――そして、そんな彼の姿を見て母は、食パンを食べながら言った。





「ねぇ、信ちゃん。信ちゃんは、本当にバスケをやめようって考えてたの?」



「え?……」


 彼は、一瞬固まった。――少しして、慌てた顔で言いだす。




「……そうだよ! 考えたよ! 僕は、医者を目指すんだ! 父さんの後を継ぐためにね!」



 彼の決意に満ちた顔を見て、母は一言だけ「そう……」と静かに言って、表情を一切崩す事なく食事を続けた。









 しかし、母の目の前に座る霞草は、最早食事さえしていなかった。――彼は、自然と喋り出す。




「…………昨日、久しぶりに狩生以外の全員と会ったんだ。皆、変わってた。……俺は、そこで誘われたんだ。いや、というよりずっと前から誘われてた。戻って欲しい。お前のリバウンドが必要なんだって……。でも、僕は……医者になるために……ならなきゃいけないから……バスケットする暇がないし……それに……今更、戻ってももう、全国大会に出る事なんてできないよ。バスケットよりも勉強を優先してさ。本当は、文武両道したかったのに……できなくて……俺、予備校に通ってる他の奴らとかよりも容量悪いからさ。どっちかに偏っちゃうんだ……」




 霞草は、静かに泣いた。フルフルと体を震わせて、自分自身を恨み込むかのように自分の胸元に視線を移して……彼は、泣き続けた。











 ――母は、そんな息子の姿を見て食べるのをやめて、真っ直ぐ見つめた。……母の柔らかい声が聞こえてくる。



「母さんね。信ちゃんが、小学校の頃にバスケを始めると言った時、嬉しかったの。……信ちゃん、小学校の頃は身体が弱くて、しょっちゅう風邪ひいてたからバスケをすると言ってくれた時は、素直に嬉しかった。……その後ね、信ちゃんがバスケを通じてどんどん強くなっていく所を見てて母さん、嬉しくて……つい、近所の人達にうちの子は凄いのよって自慢しちゃってたの」



 霞草は、涙を必死に拭いて、母を見よう見ようと顔を上げた。――母は、続ける。




「……中学に入ってからも、バスケットを続けてくれて、そこで色々なお友達を作って来てくれて……小学校の頃は、風邪をしょっちゅうひいてた子だから友だちの話なんか全然聞かなかったのに……信ちゃんがいきなり友達を家に連れて来てくれた日の夜は、父さんと一緒に沢山喜び合っていたわ。……そして、大きい大会で優勝もして……高校に入って、やっぱりバスケ部に入って……それだけでも私達嬉しかったのに……。信ちゃん、夏休みに入る直前に ”俺、医者目指すよ! 勉強と部活を両立させて、受験は医学部に! 部活は全国大会目指すよ!” なんて言ってくれたものだから……パパと一緒にね、毎日応援してたのよ。…………あの頃の信ちゃんは、本当に素敵だった。毎晩のようにパパと最高の息子に育ってくれたと話している程よ」



 霞草は、一杯の水を口に運び、言った。





「……でっ、でも! でも……おっ、俺! ……おでっ! 両立なんてできなかったよ! 何も果たせなかった。やってみせるとか言って……結局、何にもできちゃいないんだ……。中ちょ半端なんだ! 父さんだって、今じゃ俺の事、ダメな息子だって思ってるよ。……最近、全然話してないし」




 母は、顔を横に振って言った。



「……パパは、そんな事思わないわよ。むしろ、今だって応援してるわ。……それにね、中途半端で良いじゃないの。私達は、神じゃないんだから……失敗して、疎かにして……大きくつまずいて……取り返しがつかなくなって……でも、それで良いじゃない。信ちゃんは、ちゃんとそうやって自分で反省できる子なんだから、強い子に育ったんだから……一度くらい逃げようが、ダメになろうが……諦めてしまおうが……それでも立てるじゃない」




「か……かあ、母さん……」






「……私もパパもね、信ちゃんに絶対に医者になれだなんて言わないわ。むしろ信ちゃんには、自分で道を開拓して歩いてほしい……。もしも、医者になるっていう事よりも今、バスケがしたいっていう思いの方が強いのなら……」





 そう言いかけて母は、チラッと息子の顔を見た。――霞草は、もう涙を拭いていた。彼は、ようやく母の顔をちゃんと見る事ができるようになっていたのだ。



 そして、母は言った。



「もう、分かるわね……」








 そして、霞草は残りの目玉焼きを口の中に押し込んでから飛び出すように、家を出て行く……。




 母は、そんな彼の後姿を見ながら、一言言うのだった。









「……行ってきなさい」

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