第22話 勧誘 霞草編

 ――次の日の放課後。




 美しい赤き光を発する黄昏時の太陽が、今日最後の力を振り絞って黒い空にマーブリングするかの如く全体に赤を染み込ませていく……。しかし、この全体に染み込んだ赤も徐々に色を薄くしていき、気づくとあちこちにあったスカーレットの美も黒に飲み込まれていく……。


 そんなスカーレットが黒に侵食されていく頃、赤黒い教室の風景の中で1人、たった一人だけ分厚い本に読みふけっている男がいた。



 ――男は、一切その瞳を動かす事なくただ、真っ直ぐにしたのテーブルに置いた分厚い本を読み続けていた。……彼がページをめくると、一瞬だけその本の裏表紙が露わになる。



 ”必勝! 受験英語 難関大学への道”



 そう書かれていた。……男の方に耳を寄せてみると確かに、何かの呪文のようなものをブツブツ囁く声が聞こえてくる。――英文を声に出しているのだ。




 彼は、この時間になるといつも英語しか言わない。話さないのだ。……そんな緊張感と夕焼けの赤黒い光で満ちた教室で今日も勉強をしているのだ。



 ――が、そんな彼の1年間かけて作り上げたルーティーンに最近、邪魔が入る。





「……Steve walks warily down the street. ……はぁ、そろそろか」



 彼は、見開き1ページにびっしりと羅列された英文を読んでいる途中で、つい母国語が漏れてしまう。

 彼は、溜息をついてその英文を読むのを一瞬だけ止めてしまう。そして教室の上でチクタク……鳴る時計の針を見つめて、再びそのテキストに集中するのだった。




「……With the brim pulled way down low.」



 しかし、それはさっきまでのスムーズな発音ではなく、しかも所々噛んでいる。……実際、今彼の頭の中で考えている事は英文を読む事ではない。




 その証拠に目線は、テキストでも意識は、もうドアの外にあるのだ。










 そして、少ししてからようやくそのドアの開かれる音がするのだった。



「霞草いるか?」


 いつも聞いているその声を聞くと、まるで全自動の機械かのように男は、テキストを黙読しながら言うのだった。



「また、お前か。花車……」


 すると、入って来た方の男がドアを閉めてゆっくり歩きながら近づいて来る。



「あぁ、そうだよ」



「はぁ、何が”そうだよ”だ。……僕は、今勉強中だぞ? 見て分からないのかい? 君達と違って僕は、受験勉強にこの1年を捧げねばならんのだよ。分かったらもう、こんな事はやめてとっと君は、君の部活とやらに戻ってくれ」



 霞草と呼ばれたその男は、テキストを読みながらそう言う。――しかし、当の花車は全く気にする事なく話を続けた。



「あぁ、まぁ……確かに勉強も今の俺達には大事な事だよな。分かるよ。……けど、もっと違う。それだけじゃなくてさ、その……バスケットだって今できるのは、これが最後になるかもなんだ。少し位戻って来てくれないかな?」




「あのな? 花車。僕は、いつも君に言っていると思うが、僕は難しい大学の医学部を受験するんだ。その為には、今ある勉強だけに集中して打ち込まなきゃいけない。分かるだろ? 僕は、医者の家なんだ。次は僕が、引き継ぐ番。だから、バスケはもう卒業だ! 以上」


 すると、霞草はバタンッと大きな音を立てながらその分厚いテキストをたたんで自分のリュックの中に入れ込む。そして、教室から出て行こうとした。


 しかし、彼が出て行く直前で花車は、それまでにない位大きな声で彼を止める。





「待った!」



 その声に、霞草は少し肩をビクッと動かしつつ、足を止める。――その隙に花車は、言うのだった。




「……練習に行く時間が無いっていうのは、俺ももう何度も聞いてるよ。だから、その今日は、練習に来て欲しいからここへ来たわけじゃなく……いや、まぁ……練習には戻ってきて欲しいよ? けど、それ以上に……」



 霞草は、大きめの溜息をついて、振り返る事なく尋ねた。


「何の用で、ここへ来たんだ?」




「……あぁ、うん。えっと、その……今度、やめちまった奴らも含めてバスケ部の3年全員で集まって話し合いみたいなのをするんだけど……それにお前も出て欲しいなと思って……」



 花車が、申し訳なさそうにそう語ると、立ったままで霞草が尋ねてくる。



「それは、本当に……狩生達も来るのか?」



「あぁ……今、天河と想太と一緒に説得してる所だ。まだ、結果は分からないけど、でも絶対に全員集めてみせるから! だから……」




「断る」




「え? ……」



「……アイツらは、どうやったって来るわけがない。それは、まして、絶対やってみせるなんて……口ではいくらでも言える。僕は、そんな不可能な賭けに乗る気は無い。もし、奴らが本当に来るというのなら考えてやらんでもないが、まず不可能だろう」




「……」


 花車が、黙ったまま霞草の後姿を見つめていると、彼はそのまま手を振ることなく立ち去ろうとする。――花車は、そのすぐ後に動く事ができなかったが、それでも咄嗟に歩いて行く霞草を追って行く事はできた。



 早歩きで帰宅していく霞草を後ろから同じく早歩きで追いかける花車が、彼に言った。




「じゃあ! 本当に、その狩生達を呼ぶ事ができたら来いよ!絶対だぞ!絶対! 来てくれよ! それから、ライン見ろよぉぉぉぉぉ!」




 花車は、そう叫ぶとその場で立ち止まった。――そして、3人の中でも一足先に、練習へ戻って行くのだった……。

 

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