第7話 好意、すれ違い③
工房に入ると、石畳のひやりとした空気がリーニュを覆った。正面入り口には休憩中の札がかかっているのが見えた。さっそく取り掛かってくれるのを見て、急ぎのものはないのかと聞くと、まだ客に売るものは任せてもらえないのだそうだ。雑務をこなしたりしながら地道に練習しているのだと説明されて、頭が下がる。
「ロイセね、ナナヤのこと好きみたい」
ピュイがふいにぽつりと口にして、リーニュは一瞬言葉を失う。一瞬友情という意味でかと思ったが、それにしては重たい響きに考え直す。
「ほ、本気……?」
だってあのナナヤだよ? という意味を隠さずに尋ねれば、ピュイはさあと返してくる。
横暴で、身勝手で、乱暴で、我が儘な彼―― 否、彼女を、小さい頃から落ち着いていて大人っぽく、物知りで年下の子らから慕われていたようなそんな彼が好きになる意味がわからない。
「ピュイ、嫌じゃないの?」
「口出しする権利なんてないよ」
ピュイはリーニュの靴のほつれた箇所をを丁寧に見分しながら言った。
「でも、ふたりが付き合い出したらもうロイセとは会わないと思う」
「…… どうして?」
彼にしては珍しいきっぱりとした言葉にリーニュは思わずたずねた。ピュイはしばらく黙って作業に没頭してから、ゆっくりと口を開いた。
「僕の人生はもう、あいつとは関係がないから」
ピュイは一旦作業台に靴を置くと、工房の隅の箱に手を伸ばした。中には端切れが入っていて、ピュイはいくつか取り上げると作業台に戻った。
「もう里も出た。僕はもう里に戻らない。僕は僕の人生を生きる。誰にも侵させない」
なかば呪詛のようにささやかれた言葉に、リーニュは一瞬ぞくりと背中が震えた。体感するより何倍も部屋が冷えたような気がしたのも束の間、ピュイがぱっと笑顔で振り返ってそれは霧散する。
「うん、やっぱり明日の朝には渡せるよ。今日は代わりの靴貸すね」
明るい、しかし有無を言わせないような口調にリーニュはなにも言えなかった。
湖には竜が沈んでいる。
とはいえ、年明けと同時に植えられた竜の逆鱗からは、まだなにも生えていない。隣の湖には子どもの竜が、その隣にはもう少し大人の竜がいる。
地下湖は寒い。
子どもの頃はそれほど気にならなかった寒さが、今は骨身に染みるようだった。
「カリャサ」
後ろから咎めるような声が聞こえた。
「何度言ったらわかる。竜は子どもでも危ないし、ここは長いこといると体が冷える」
「母さんの方がずっと心配だよ、俺は」
ミヴにそう返しながら、カリャサは湖をたゆたう竜の鱗を見つめた。その頭をミヴが「なに言ってんだ」とかきまぜる。
「イグニがもう来てる。おまえも早く来な」
「もう元気だよ」
「早く来な」
渋々家に戻ると、イグニが息子のロイセを連れて来ていた。
「痛みはまだある?」
「膝と背中が少し」
上半身の服を脱いで触診を受ける最中にされる問いかけに答えながら、カリャサは子どもの頃のまま、肩まで伸びた髪をかきあげた。
「じゃあ痛み止めを出しておこう。もう完全に男に変わってるから大丈夫だけど、あまり冷やさないようにして―― ロイセ、薬箱」
父に言われて、ロイセが「はい」と薬箱を差し出す。イグニは「夜に痛みで眠れないとか、そういうときに飲んで。でも飲み過ぎないように」とカリャサに説明すると、次いでミヴに目をやる。
「ミヴ、君は? 足が痛むようなら君にも痛み止めを出すけど」
「私に効く薬はもうないんだろ」
「それは君が僕の言いつけを守らないからだ。いいかい、そもそも君は――」
「ああもう、わかった、わかったよ」
イグニの説教が始まってミヴが顔をしかめる。いつも彼女の小言に飽き飽きしているカリャサとしては、少し面白い光景だ。上着を着直すと、診察道具を片付けていたロイセがふと思い出したように言った。
「そういえば、都でリーニュたちに会ったよ。みんな元気そうだった」
カリャサは上着を被りながら「そう」と口にする。
「登用試験はたしか、もう始まってるんだよね」
「そうみたい。この前、一回目の筆記試験が終わったって言ってたよ」
へえ、とカリャサが相槌を打つそばで、母ミヴが渋い顔をする。
「カリャサ、おまえ、まだ天覧試合に出たいなんて言う気じゃないだろうね」
母の言葉にカリャサはため息を吐きながら肩をすくめ「言わないよ」と言った。
「母さんがうるさいから。でも出るけどね」
「カリャサ!」
ミヴのとがめるような声を背中で聞きながらカリャサは家を飛び出した。
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